Photo & Essay

◎  首里城 

首里城(スイグスク)は14世紀末に創建され、
中国や日本の文化も混合する琉球独特の城です。
沖縄戦で焼失しましたが、
1992年に復元されました。

2000年12月に
『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として世界遺産に登録されましたが、
登録は「首里城跡」であって、
復元された建物や城壁は世界遺産でないそうです。


守礼門

「首里城守礼門」

城外にある門です。
かつては「首里」の扁額が掲げられていたので、
「首里門」と呼ばれていました。
冊封使(中国皇帝の使い)の滞在中だけ、
「守礼之邦」の扁額を掲げましたが、
その後は常時掲げるようになり、
「守礼門」と呼ばれるようになりました。


歓会門

「歓会門」

首里城の城郭内に入る第一の正門。
冊封使を歓迎するという意味でこの名が付けられました。


番人

歓会門を入るとそこに番小屋があって、
番人がいました。

この後、
「瑞泉門」「漏刻門」「広福門」と門が続きます。


王と妃の人形

途中に国王と王妃の大きな人形がありました。


踊り

宮殿に入る直前の広場で、
踊りが行われていました。
ガイドさんがどんどん進むので、
パチリと撮っただけでした。


正殿

「正殿」

最後に「奉神門」を抜けると広い「御庭」があり、
正面に「正殿」、
右に「南殿」、
左に「北殿」があります。


玉座

「正殿」内の「玉座」です。

南殿内は撮影不可ですが、
正殿内は撮影可でした。


王冠

「王冠」です。


カンヒザクラ

城内の見学を終えて出口に向かうと、
寒緋桜が1本ありました。
赤い屋根は土産物屋の建物です。


ツワブキ

道端にはツワブキが咲いていました。
他でも見かけましたが、
どうして今頃咲いているのか不思議です。


◎  美ら海 

美しい海を「美ら海(チュラウミ)」というそうです。


新原ビーチ

新原ビーチです。
沖縄島の南端に近い、
太平洋に面した海岸です。


新原ビーチ

ここで「グラスボート」に乗せてくれるということでした。
場所に着くと看板に「ガラスボート」と書いてあります。
グラスファイバー製のボートのことだろうが、
「ガラスファイバー」とはあまりいわないようだがと思いました。

乗ってみると、
船内には向き合って長いベンチがあり、
その間(船の中央部)に細長い木枠があります。
木枠の底(つまりは船底)にガラス板がはめ込んであって、
20人位が一緒に海底を覗けるようになっていました。
「ガラスボート」とは
ガラスの覗き窓のあるボートのことでした。


新原ビーチ

少し沖の方に出てから、
船を停めて海底を見せてくれました。
海底といっても、
水深2~3mです。


新原ビーチ

船もゆるいながら進みますし、
魚も動きます。
見えたらシャッターを押すのですが、
うまく撮れません。


新原ビーチ

深さが20~30mの所も見せてくれましたが、
なんとか撮れたのは浅いところだけです。


新原ビーチ

ときどき餌をまいて魚を集めていたようです。
これは餌につられて沢山寄ってきたのだったと思います。


ブーゲンビリア

新原ビーチの海底見物を終えて、
次へ移動です。
(このブーゲンビリアはここに咲いていたわけでありません)


次に訪れたのは沖縄島のほぼ中央部で、
東シナ海に面した海岸にある万座毛(マンザモウ)です。
ここは琉球石灰石からなる海岸段丘で、
海食岸と風衝草地が広がる景勝地です。


万座毛

これが風衝草地というのでしょう。
草は枯れていますが高麗芝です。

万座毛の名は、
18世紀前半にこの地を訪れた琉球国尚敬王が、
万人が座ることのできるモウ(草地)だと讃えて命名したといわれます。


万座毛

上の草地の左側に見える海食岸です。


万座毛

草地をまっすぐ前に行ったあたりの海食岸です。


万座毛

草地の右側の海です。
向こうに見える白い建物は、
沖縄サミットのとき、
アメリカのクリントン大統領が泊まったホテルだそうです。


万座毛

ホテルを撮った場所から、
ちょっと右へ動いた所に大きな岩があり、
その上に鳥が止まっていました。
これを撮って、
もう少し近付こううとしたら逃げてしまいました。

これでもかなりトリミングしています。
図鑑で見たらイソヒヨドリのようです。


◎  地の底 

前回は海底の写真でしたが、
今回は地底です。

その前に、
今回沖縄で感じたことがふたつあります。

一つ目はホテルのことです。
「浴衣・スリッパは室内だけにして下さい」
といわれました。
3泊、別々のホテルでしたが、
全部そうでした。
中でも2泊目のホテルには、
大浴場があるのです。
それに入るのも、
服を着て、
靴を履いて、
浴場まで行かなければなりませんでした。
ヨーロッパと同じです。

二つ目は水道の水です。
「沖縄の土地は石灰質だから、
硬水です。
水道の水は飲まないで、
ペットボトルの水にして下さい」
と添乗員がいいました。
これもヨーロッパ並みです。
でも飲んで見ると、
イタリアに比べたら飲めましたが・・・

この石灰岩が作り出した鍾乳洞に入りました。


玉泉洞

入り口にある石碑です。
パンフレットをみると、

日本第二位の長さ、
全長5kmを誇る玉泉洞は、
沖縄の美しい珊瑚礁からできたものです。
日本最多の100万本の鍾乳石が林立しており、
30万年かけて形成された東洋一の大鍾乳洞です。


日本第二位で、
東洋一だというのが、
よく分からない説明ですが
地底に壮大な洞窟が広がっています。


玉泉洞

その壮大さをお見せできる写真はありません。
暗いから近くの鍾乳石しか写せません。


玉泉洞

これはサービスのつもりでしょう。
ライトアップしていて、
色が変わるのです。
シャッターを切ったタイミングによって、
赤・青・黄などに変わります。


玉泉洞

洞穴の中には水が流れています。
暗いのに魚もいました。


玉泉洞

ツララのように細いのが沢山ぶら下がっています。


玉泉洞

上のツララと違って
巨大な岩になっています。
写真の上部に明るくみえるのは、
こちらへ歩いてきた通路です。

歩いて見れる洞窟の長さは890mです。
地上に出ると、
店やら古い家やら植物やらが
沢山あります。


セイロンベンケイ

鍾乳洞の地上に咲いていた花です。

セイロンベンケイ(方言名:ソーシチグサ)
ベンケイソウ科

アフリカ原産の多年草で、
1メートル以上にもなります。
葉は多肉質。
春になると茎の頂端に円錐花序の花を下向きに咲かせます。
琉球石灰岩地帯に多い雑草です。



セイロンベンケイ

掲示板には雑草と書いてありましたが、
美しい花です。


沖縄の写真はまだありますが、
今月下旬は予定が立てこんできました。
(長い旅行をするわけでないのですが・・・)
パソコンの前に座る時間が取れませんので、
しばらくお休みさせて頂き、
3月始めに再開したいと思っています。
よろしくお願い致します。


◎  雨のオランダ坂 

昨日はツバキ「玉の浦」をお見せしましたが、
今日はそれが咲いている島、
五島列島にたどり着くまでのお話です。

2月22日(日)から24日まで3日間の旅でした。
ツアーの名称は「椿彩る早春の五島列島、名花 玉の浦の面影」です。
朝10時羽田空港に集合、
参加者は20名でした。

羽田発10:45
長崎着12:45
ほとんどダイヤ通りの運行でした。
午前の羽田は晴れていましたが、
長崎は雨でした。
滅多に来ないのですから、
「長崎は今日も雨だった」
ということもありません。
予報通りの天候でした。

空港からバスに乗り込み
約1時間の予定で波止場に向かいます。
そこから高速船「ジェット・フォイル」で五島列島に渡り、
午後の4時半にはホテル到着。
夕食は「椿林に囲まれた『椿茶屋』で郷土料理」という予定です。

しばらく乗っていると添乗員からアナウンスがありました。
「波が荒いためジェット・フォイルが欠航になりました。
次のフェリーで渡ることにします。
それで・・・・・」

急遽バスは長崎市内に向かい、
長崎歴史文化博物館に立ち寄って
時間をつぶすことになりました。

そこを出ると今度は、
カステラの老舗の2階でコーヒーブレイクです。
大きなカステラが2切れとコーヒーが
人数分並べてありました。
フェリーは速度が遅く、
島に着くのが8時半ころになるので、
おなかが空くだろうから食べておいて下さい、
とのことでした。

降り続く雨の中をバスは波止場へ向かいました。
バスのガイドさんは「短い時間でしたが・・・」と
別れの挨拶です。

挨拶が終わり、
バスが連絡船の乗り場前に停まったとき、
携帯でずーっと話をしていた添乗員がマイクを取りました。
「フェリーも欠航になってしまいました。
今、東京の事務所が長崎市内のホテルを探しています。
ホテルが決まるまで少しお待ち下さい。
明朝のジェット・フォイルは満席だといっているので、
これから交渉にいってきます・・・」

バスに乗ったまましばらく待ちました。
やがて添乗員が戻り、
予約の取れたホテルへ向かいました。

遅い夕食の予定だったのが、
6時半からになりました。
それでも時間があります。
ホテルのすぐそばにオランダ坂があるので、
傘をさして行ってみました。


オランダ坂

♪こぬか雨ふる 港の町の
青いガス灯の オランダ坂で
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


こぬか雨よりも強い雨が降っていました。


オランダ坂

♪雨のふる日の 日ぐれの頃に
思い出します オランダ坂を
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


坂を登っていくと風が強くなってきました。
風は写真に写りませんが、
折りたたみの傘が裏返ったり、
飛ばされそうになったり、
かなりの強風でした。
この風だからフェリーも欠航したのだ・・・

坂の前方がV字型に分かれています。


オランダ坂

左側の坂の上り口に石塔が立っていました。
ここから上が「オランダ坂」なのでしょうか?
かつて異人屋敷が並んでいた・・・


オランダ坂

風が強いし、
レンズも濡れるし、
戻ることにしました。
足元の石畳です。

雨と風のオランダ坂でした。



夕食時に明日の予定が発表されました。
結局ジェット・フォイルが予約できないので、
一番のフェリーで渡ることになりました。
朝食が6:40からで、
ホテル出発は7:10ということになりました。
それでも島に着くのは11:30になりますから、
半日分予定が狂うことになりました。


◎  船旅 

前回書いたように長崎に泊まることになりました。
旅行社が急遽探してくれたのは、
実は2004年8月15日に泊まったホテルでした。
その夜は「精霊流し」を見にいきました。
翌日は「山鹿の灯篭祭り」でした。

そのホテルでの夕食時のことを思い出してブログに書いたことがあります。
ご用とお急ぎのない方はご覧になって下さい。
「ご馳走様」
という題です。

今回は夫婦・グループ毎のテーブルでしたから、
よそのご夫婦のお話を伺う機会はありませんでした。


その夜と次の早朝はテレビの天気予報ばかり見ていました。
「雨」「強風警報」「波浪警報」など心配の種ばかり・・・
無事に渡れても、
帰れなくなったらどうしよう~
却って楽しいかな?
とか想うこと多い夜でした。


地図

地図で確認しておきます。
左側の縦に連なる島々が五島列島です。
南から福江島、久賀島、奈留島、若松島、中通島の五つの大きな島を中心に、
約140の島からなります。
多くの教会が存在し、
キリシタンの香りが色濃く残る島々です。

地図の右方の赤丸が長崎港で、
左方の赤丸が目的の福江港です。
この間の距離は約100kmです。


ジェット・フォイル

まだ小雨の降る波止場に着いてみると、
どうやら船は出るようです。
満席で乗れなかった高速船が出ていきました。
これに乗れれば、
昨夜島に泊まったのと大差ないのでしょうが、
仕方ありません。
高速船の所要時間は1時間半。
フェリーでは3時間半です。
その上出発時間も後になっています。


フェリ-

これが出航を待つフェリーです。


灯台

今度は無事に出航しました。
長崎湾を抜けて外洋に出るところです。
だんだんと雨もあがってきました。


海と空

福江港に近づいてくると
日も射し始めました。
天気予報は良い方にはずれているようです。

船内で変更になった旅程が発表になりました。
半日短くなってしまいましたが、
順序を変更したり、
観光時間をつめたり、
いろいろと工夫をして、
観光箇所はほとんど減らさないとのことでした。


地図

一番大きな島、
福江島がメインですが、
その北隣の久賀島(ヒサカジマ)にも行くことになりました。


ボート

福江港に着くとすぐに昼食を取り、
また港に戻って、
この黄色の船に乗って久賀島へ向かいました。

久賀島の田ノ浦港は、
昔唐へ渡る船が待機した港だそうで、
空海も寄っているそうです。

島の中をマイクロバスで案内してくれましたが、
そのガイドさんは、
黄色い船の船長さんでした。

港に島を説明する看板がありました。
久賀島は
椿油の生産量が戦後日本一を記録したこともある「椿の島」です。
東海岸の長浜地区に県の天然記念物に指定されている椿原生林(約1ha)と、
西海岸の亀河原地区の自然林(約12ha)があります。
島内には突然変異による久賀白、
久賀一号などの白色系椿の自然木も発見されており、
更に樹齢200~300年前後の巨木も多数生育して歴史の古さを誇ります。



久賀白

残念ながら巨木も白系の椿も見せてもらえませんでした。
この白花は長崎港の待合室に鉢植えされていたものです。
多分「久賀白」だろうと思っています。


◎  久賀島 

久賀島では二つの教会を見学しました。
(「ヒサカジマ」と読みます)


浜脇教会

まず訪ねたのが浜脇教会です。
名の通り浜辺にありましたから、
ボートが港に着く直前に海から見えました。

明治14年に建立されましたが、
潮風による傷みが激しいので、
昭和6年に鉄筋コンクリートで再建されたそうです。


浜脇教会

堂内です。
塗りなおしたようで、
きれいでした。


浜脇教会

ステンドグラスは花模様です。
赤いのは椿だそうですが、
5弁にしないで十字架を表して4弁にしてあります。


牢屋の窄

次は「牢屋の窄」という恐ろしい名の所です。
「窄(サク)」は「穴室の周囲の障壁が近迫して狭い」意。

ここに書かれている文を下に書き記します。


牢屋の窄殉教記念聖堂

明治元年(1868)長崎の浦上の地において
キリシタン迫害が始まると、
多くの信者がいた五島各地でも厳しい弾圧と迫害が始まった。

久賀島では、
6坪ほどの牢屋に信者200名を8ヶ月の間押し込み
連日悲惨な拷問が行われたという。
その結果、
死者39名、出牢後死んだ者3名という悲惨な弾圧であった。

その状況は外国使節団の知るところとなり、
明治新政府の外交問題に発展し、
ついに太政官布告によって明治6年キリシタン禁制の高札が下ろされ、
信者たちは信仰の自由を勝ち取った。

この歴史的場所である牢屋の窄一帯を殉教聖地として
永久に保存しようと地域の信者たちが浄財を出し合い、
地主より買い受け、
殉教の牢屋の跡に信仰の碑(殉教記念碑)を建立し、
昭和59年には新聖堂も建立された。



記念聖堂

牢屋の窄殉教記念聖堂です。
広角レンズによって歪んで見えますが、
本物はきちんと立っています。


記念聖堂

ここのステンドグラスは花模様でなく、
抽象模様でした。


囚獄の跡

教会の脇に教徒迫害の経緯を書いた碑があります。
上の記述よりも詳しいので
読めない箇所もありましたが、
できるだけ判読して書きました。
(中央上部が黒くて解読できない文字がありますので、
それは「*」で記しました)


久賀島カトリック信徒囚獄の跡

江戸幕府に続く明治政府のキリシタン弾圧により
明治元年9月久賀島の信徒が捕らえられ、
激しい火責め、水責め、算木責めの拷問を受け、
同年10月22日には内上平部落の信徒の家をこの地に移して牢とし、
老若男女200余名が収容された。

この牢屋は奥行き3間、間口2間、6坪の家牢で、
中央が仕切られて男女別に監禁された。

狭隘な牢内では身動きすることも困難で人の体にせりあげられて
足さえ地に着かない者もあって、
さながら人間の密集地獄であった。

3日目には足が腫れ上がり、
食物は芋の小切れを朝に1個ずつ、
飢えと苦痛のため死者が続出した。

死体は密集地獄の下に踏み潰されて腐敗するが、
5日間も放置され、
蛆がわいて人体に這い上がり、
その上、
その場に放尿、排便せねばならぬので、
その不潔さと臭気は言語に絶する惨状。

12歳のドミニカ・**(名前)は蛆に下腹を食い破られて死亡した。
10歳のマリア・**(名前)は熱病におかされて頭髪は落ち、
「私はバライソ(天国)に行きます。
**********さようなら」
の一語を残して息を引き取った。
その妹マリア・**(名前)は7歳の幼女であったが、
「イエス様の五つの御傷に対して祈らねばなりません」
と言い残して息絶えた。

彼ら信徒は、
孜々として生業に励み、
忠実に法に従う良民であったが、
信仰に忠実に、
神の掟を重んじたというだけで、
この責め苦を受けたのである。

明治政府は絶対主義、神道国家確立をはかり、
祭政一致を唱え、
その政策の犠牲となったのが、
カトリック教徒たちである。

久賀島のカトリック教徒は、
あどけない幼児から60余歳の老人に至るまで、
超人的な精励を以って、
この比類のない苦痛に耐え忍び、
信仰の自由と良心の尊厳とを身を以って主張し、
信仰に生きる久賀島カトリック信者の魂の偉大さを発揮したのである。



牢死者の碑

中央の少し右よりにある黒い厚い石に上の碑文が書いてあります。
中央の高い碑が「信仰の碑」で、
沢山並んでいるのが「牢死者の碑」です。


ヤブツバキ

恐ろしい出来事の記念聖堂、
記念碑のそばには、
赤い藪椿が春の日を受けて咲いていました。


ヤブツバキ

明治政府は廃仏毀釈などで仏教をも迫害しましたが、
カトリックに対する迫害は読むに耐えないものでした。
その「読むに耐えない」ものを皆様に読ませたことをお詫びします。


◎  福江島 

2月23日昼食後久賀島に渡り、
浜脇教会と牢屋の窄記念堂を見てから、
野生のヤブツバキの咲く山道を散策し、
五島列島で最大の島、
福江島へ戻りました。
そして半日の遅れを取り戻すべく
駆け足の観光が続きました。


福江島

まず向かったのが堂崎天主堂です。
道が狭いのでバスを降りて少し歩きます。
途中の風景です。
この建物はレストランのようでした。


福江島

堂崎教会です。
明治6年にキリシタン禁制が解かれ、
その4年後にフランス人宣教師が五島にやってきて、
明治12年に堂崎小聖堂を建立しました。
そして2代目の司祭が用地を拡張し、
明治37年に新聖堂建築に着手。
同40年に完成したゴシック様式の聖堂で、
イタリア製赤煉瓦が用いられているそうです。


福江島

ステンドグラスは4弁のツバキです。


福江島

次は五島氏の庭園拝観です。

福江島のお城は石田城というそうです。
嘉永6年(1849)幕府の命令で築城が始まり、
完成間近の安政5年(1858)
藩主五島盛成は家督を盛徳に譲って隠居。
城内に陰殿と庭園を作りました。


福江島

ここの池が心の字を象ったことから、
心字が池庭園とばれるそうです。

ぐるっと池を一回りしましたが、
どういう具合に「心の字」になっていたか分かりませんでした。


福江島

池の傍らに落ち椿が流れ落ちて、
浮かんでいました。

お堀と橋の写真を撮ったのが17:11。
城内の小道を辿って庭園の入り口に到着。
添乗員が入場券を買ってくれて、
園内に入り、
池を巡って出てきたのが17:25です。
(イソガシイ!!)


福江島

それからバスで鬼岳という小山の中腹にある椿園です。
面積が6haで、
島に自生するヤブツバキのほか、
園芸品種など約260種、
2000本の椿を植栽しているそうですが・・・
到着が17:50、
出発が18:05ですから、
われわれが可哀想です。


福江島

名は知りませんが、
ここで撮った椿です。

このあとで「玉の浦」に出会いましたが、
急げ!急げ!だった上に、
夕闇が迫っていました。
光が乏しくピントがよく合いません。
「玉の浦」は先日掲載済みですが、
ろくな写真が撮れなかったことの言い訳です。


福江島

椿園のあと、
もう一箇所行きました。
バスを降りて撮ったのが、
先ほどの鬼岳です。
島で4番目に高い山で標高315m。

この形から五島富士とも呼ばれるそうです。
そして冬には雪を頂くこともあるとのことです。


福江島

最後の観光は、
鎧瀬溶岩海岸です。
ガイドさんが、
明るい時に見れば、
ああだ、こうだ、
といいますが、
この通りの暗い海でした。

夕食を頂いて、
バスでホテルへ着いたのはちょうど21時。
長い一日でした。


◎  大瀬崎 

五島列島の旅も最終日となりました。
今日の観光は福江島の西南端です。


地図

地図の地名にアンダーラインを引きましたが、
大瀬崎、大瀬崎断崖に行きました。
参考に玉之浦港、父ケ岳にもアンダーラインを引きました。
名花『玉の浦』にかかわる地名です。


大瀬崎

大瀬崎灯台です。
明治12年(1879)に点灯されたそうです。
その後昭和46年(1971)に改築されて、
200万カンデラの明りが50km沖合いまで届き、
航海の重要な道標となっています。

「カンデラ」とは何か調べました。
カンデラ【candela】(ラテン語の「ろうそく」の意から) 光度の単位。
国際単位系(SI)の基本単位。
1カンデラは周波数 540×1012Hz の単色放射を放出する光源の
放射強度が683分の1ワット毎ステラジアンである方向の光度。
記号 cd (広辞苑より)

何のことやらさっぱり分りません。


大瀬崎

灯台の左側に伸びる大瀬崎海岸です。

北西季節風が強く、
荒波が打ち寄せる五島の海岸線には、
海食崖が多く発達しています。
特に、ここ大瀬崎を中心とする一帯では、
高さ100~150mの断崖が約15kmにわたって連なり、
西海国立公園を代表する景観を作り上げています。


展望台があり、
そこに「ハチクマのわたり」について書いた看板がありました。

ハチクマは、
日本では主に本州で繁殖するトビとほぼ同じ大きさのタカ科の猛禽類です。
秋になると越冬のため中国大陸へ向かう渡り鳥として
ハチクマの群れが五島福江島に飛来します。
特に玉の浦町大瀬崎(大瀬崎山頂)は、
ハチクマの群れが中国大陸へ向けて次々に飛び出す様子を
間近に観察できる絶好のポイントになっています。

毎年9月中旬から10月上旬にかけて、
1万羽を超えるハチクマが観察され、
1日で1500羽を越えることもあります。
この時期には、
ハチクマのほかに、
アカハラダカ、チゴハヤブサ、ツバメなど
多くの野鳥が渡って行く様子も観察できます。

日本国内で繁殖したハチクマのほとんどが五島列島に飛来し、
大瀬海岸を中心とした福江島の西海岸から中国大陸まで
直線約600kmを一気に渡って行くと考えられ、
その飛翔力に驚かされます。



大宝寺

順序としては大瀬崎は最後でした。
大宝寺という仏教寺院へ朝一番に寄りました。
入り口の石塔に「西高野山」と書いてあります。

旅程には「大宝寺(『玉の浦』2世種)と書いてあります。
私は勝手にこう解釈していました。
名花『玉之浦』の原木は何かの原因でなくなってしまった。
しかしこの大宝寺にはその血筋を引く木があって、
現在、島中に、あるいは日本中に、いや世界中に、
広がっている『玉の浦』はこの2世種の子なのではないか、と。

その木を今日は見せてもらえるのだから、
昨日鬼岳で日が暮れてしまって、
時間もなくて、
よく見れなかったことは、
さほど悔やんでいなかったのでした。


大宝寺

境内に入ると鐘楼の脇に
石灯籠と並んで、
さほど大きくない『玉の浦』の木がありました。
ガイドさんは見向きもせずに進んでいきます。
奥の庭にその2世種があるのだろうと、思いました。


大宝寺

しかし本堂へ導かれ、
靴を脱いで堂内の拝観、
5分ほどの住職の講話を聞いたら、
もうバスに乗って出発です。


大宝寺

何かおかしいと思いながら、
とりあえずさっき見かけた『玉の浦』を
大急ぎで2、3枚撮ってバスへ戻りました。


大瀬崎でガイドさんに『玉の浦』のことを聞いてみたら、
おおよそ次のような答えでした。

父ケ岳(461m)の中腹に自生しているのを
昭和22年に炭焼きが見つけた。
そして昭和48年長崎で開催された全国ツバキ展に切花が出展されて、
世間の注目を引いた。
しかしそこから原木に不幸が訪れた。
枝を折り取られ、
ついで幹も、
最後には根っこまで掘り取られてしまった。

挿し木された苗が広まり、
アメリカでもこれと交雑した品種が作られている。

ところで、
現在栽培されているものは挿し木で増やしたものだから
原木と同じだといえば同じだし、
これを2世種だといえば、
そうなるけれども「2世種」という言葉は使っていないし、
大宝寺に特別の木はない。
とのことでした。

『玉の浦』については、
九州大学で遺伝子の研究が行われている。
現在までに分かっているのは、
五島の藪椿の遺伝子と、
新潟の(小林幸子が歌う)雪椿の遺伝子とをもっていること。
どうして新潟の椿がここへ?

藤村の「椰子の実」のように海を流れて五島へやってきたのかも知れないが、
ハチクマが運んできたのではないだろうか?とガイドさんは考えている。
(猛禽類のハチクマが椿の実を食べればの話でしょうが・・・)

こんな話でした。
紹介し忘れていましたが、
このガイドさんは島の椿協会の会長さんだそうです。


井持浦教会

大宝寺の次は井持浦教会です。
レンガ造りの聖堂で、
明治30年(1897)創建だそうです。
この教会は火曜日が休みだそうで入れませんでした。
元来は昨日訪れる予定でした。


ジェットフォイル

島で昼食を取って、長崎へ向かいました。
海はベタ凪でした。
今度は予約してあったジェット・フォイル(高速船)の旅です。
畳部屋ではなく列車やバスのような椅子席で、
ベルト着用です。
フェリーのようにデッキに出て外の風に当ったり、
写真撮りをしたりはできません。
片道がフェリーでよかったのだとも思いました。


◎  喜びも悲しみも幾歳月 

大瀬崎燈台

前回も写真を掲載した大瀬崎燈台です。
ガイドさんが「ここで映画『喜びも悲しみも幾歳月』のロケが行われました」
と説明してくれました。

案内板には何も記載がありませんので、
Wikipediaなどで調べました。

懐かしい映画ですが、
昭和32年だそうですからずいぶん古い昔になりました。
実話を基に木下恵介監督が脚本を書いたそうですが、
ストーリーは、
1932年、新婚夫婦(佐田啓二、高峰秀子)が観音埼燈台に赴任するところから始まり、
翌年、夫婦は石狩燈台へ転勤し、
冬の寒さに耐えながら長男と長女に恵まれる。
1937年、長崎県の孤島・女島燈台へ転勤。
1941年、佐渡島の弾埼燈台に転勤。
更にその後も転勤が続きますが、
大瀬崎燈台に勤務はしていないようです。

女島(メシマ)は、
福江島から南へ100km以上も離れた男女群島最南端の島です。
燈台も無人化されてしまい、
この群島の人口は現在ゼロです。

女島は見上げるような断崖が続き、
一年を通して海上は平穏ではなく近づきがたく上陸もしにくい島であり、
この灯台を建設するのは非常に骨が折れたそうです。
そんな燈台ですからロケは困難で、
大瀬崎燈台を代わりに使ったのではないかと思います。



◎  「敵艦見ユ」 

大瀬崎の案内板に、
「喜びも悲しみも幾歳月」のことは書いてありませんでしたが、
断崖のこと、燈台のことを書いた後、
明治31(1898)年には、
当地に無線電信機を備えた旧海軍の望楼が設置されており、
1905(明治28)年、日露戦争時に、
ロシアのバルチック艦隊発見の報「敵艦見ユ」を受信している。

と書いてありました。
Wikipediaなどで調べたことを書いてみます。

マルコーニが無線電信技術を発明したのは1894年頃のことです。
そして日本海軍は1903(明治36)年に、
当時としては世界最高といわれた三六式無線電信機を開発し
連合艦隊の全艦に設置しました。
これが日露戦争で活躍することになります。

ロシア帝国は日本海の制海権を確保しようと、
バルチック艦隊をウラジオストク港に向かわせました。
日本の連合艦隊はそれを向かえ撃つべく待機しています。
バルチック艦隊が日本海に入る経路としては、
対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡
と三つありましたが、
連合艦隊は対馬海峡経由と判断して待ち構えていました。

哨戒の任についていた信濃丸は、
1905(明治38)年5月27日午前2時45分、
点灯航海している船を見つけました。
これはロシア艦隊の病院船でした。
密かに近づいて無灯火航行中の大艦隊、
バルチック艦隊を発見します。
これが午前4時45分。
直ちに「敵艦203地点ニ見ユ0445」と打電しました。
「203地点」は対馬海峡付近の海域を碁盤目状に区切った地点番号です。

その電信を受けたのが大瀬崎だったということです。

同日午前5時5分に、
連合艦隊の旗艦「三笠」は全艦隊に対して出撃を命じ、
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、
コレヲ撃破セントス。
本日ハ天気晴朗ナレドモ浪高シ」
と大本営宛に打電しました。

実際の海戦が始まったのは午後2時頃からです。
夜戦、さらに翌日の海戦を経て、
連合艦隊はパーフェクトといわれる勝利を収めました。


三六式無線電信機の性能について検索で調べてみました。
実験的には長崎-台湾間(1200km)の通信に成功したそうですが、
一方で、交信能力は370kmという記述もあります。
「敵艦見ユ」を発信した時
信濃丸と三笠の距離は185kmだったそうですから、
問題なく直接届く距離でした。
大瀬崎の役割は何だったのでしょうか?

三笠から大本営に「・・・天気晴朗ナレドモ・・・」と打電していますが、
これは直接届いたのでしょうか?
大本営は、日清戦争時は広島に置かれましたが、
日露戦争時は東京だったようです。
三笠から直接は届かないような気もしますが・・・
大瀬崎が中継したのでしょうか?

正直の所、
分からないことが多いです。


クロッカス

大瀬崎とも日本海海戦とも関係ありません。
先日撮ったクロッカスです。


クロッカス

日本では「日本海海戦」と呼んでいますが、
他国では一般に「対馬海戦」と呼ぶそうです。


◎  「つばさ」の舞台 

川越は城下町で、
江戸情緒を残す街として小江戸と呼ばれています。
東京に近いこともあり、
いつも観光客で賑わっているのですが、
今週から始まったNHK朝の連ドラ「つばさ」の舞台となったことで、
今年は一層賑わうものと期待されています。
「つばさ」をどんな風に宣伝しているのかに注目して歩いてみました。


川越

東京から川越に至る電車としては、
JR川越線、東武東上線、西武新宿線があります。
西武線を降りたら、
駅の構内には長い横断幕が下がっています。
他の駅も同様でしょう。


川越

駅を出て、
街を歩くとこんな幟も立ててありました。


川越

川越の街を特徴付けるのは蔵造りの町並みです。
物をしまっておくための土蔵ではなく、
これが店になっているので店蔵といいます。
耐火のためですが、
経済的に豊かでないと造れません。

「つばさ」の主人公の家も蔵造りの和菓子屋という設定になっています。


川越

これはずいぶんと立派な店蔵で、
金物屋さんです。
もう十年以上も前になると思いますが、
この家の中や暮らしがNHKで紹介されました。


川越

同じ町並みのスポーツ品店です。
いろんなポスターと並べて
「つばさ」のポスターが貼ってあります。

店先ではなくて、
店内に大きなポスターを貼っている店が多いようです。


川越

このポスターはうどん屋さんの入り口横に貼ってありました。
桜の時期でもあり、
いろいろと春の行事があるらしいですが、
そのポスターにもちゃんと「つばさ」が挿入してあります。

多部未華子さんが写っている方のポスターには、
左上に『蔵造りの家』
そして左下に『時の鐘』の写真があります。


川越

これがポスターに載っている家(陶器屋さん)です。
物語の主人公の家の外観にはこの家を使ったそうです。


川越

屋根をご覧下さい。
重厚な瓦は見事なものです。


川越

こんな瓦の屋根は、
作るのはもちろんのことですが、
維持管理してゆくのも大変なことと思います。
(貧乏人の要らざる心配ですが・・・)


川越

この陶器屋さんの裏にはトロッコのレールが敷いてありました。
今はあまり使っていないようですが、
裏の土蔵前から店先まで通じています。
重量物を運搬するのに便利です。
ドラマの中にもトロッコが出てきますが、
撮影はこの建物でありません。


川越

川越のシンボル『時の鐘』です。
京都といえば東寺の五重塔か八坂の塔が出てきます。
(例える相手が立派過ぎましたが)
これと同じで、
川越といえばこの『時の鐘』が出てくるのです。
時報の役目を果たしていたわけで、
今も日に4回鳴らしているそうです。


◎  清澄庭園 

昨日は仲間たちと
大勢で深川方面散策に行ってきました。


清澄庭園

いろいろと回りましたが、
これは清澄(きよすみ)庭園の池です。

清澄庭園は、
パンフレットによれば、
紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられ、
その後久世大和守の下屋敷となり、
明治11年、岩崎弥太郎が社員の慰労や
貴賓を接待する場所として造園したとのことです。

池の向うに見える建物を涼亭(りょうてい)といい、
幹事さんのお世話で、
ここで昼食を頂きました。


清澄庭園

涼亭の奥の方に広場があり、
八重桜が一面に散り敷いていました。
ご覧のように陽射しが強く、
夏のような暑さでした。

付け加えれば、
この八重桜のように美しい女性たちも一緒でした。


清澄庭園

桜のもう少し奥に、
大きな石碑があり、
そこに
古池や蛙飛び込む水の音
と書いてあります。

ここから400mほど離れたところに
芭蕉庵跡があり、
この句はそこで1685年の春に詠まれました。
昭和9年にこの碑は建てられましたが、
芭蕉庵改修の際、
そこの敷地が狭いので、
ここへ移されたそうです。

芭蕉庵は、
弟子の杉山杉風所有の生簀の番小屋を改築したものだそうです。
だからこの近くの川べりにあったわけです。


清洲橋

清澄庭園の前に、
芭蕉記念館に寄って見学しました。
そのそばにある芭蕉史跡展望庭園から眺めた隅田川です。
見えている橋は隅田川に架かる橋の中で
一番美しいといわれる清洲橋です。

芭蕉記念館の写真はありませんが、
入り口の脇に小さな池があり、
オタマジャクシが沢山泳いでいました。

今日になって一句できました。
芭蕉庵池にはオタマジャクシだけ     capucino
俳句というより川柳仕立てです。
「芭蕉庵」跡へは行っていないのですが、
「芭蕉記念館」では文字数が多すぎるので、
芭蕉庵にしました。

まだ蛙になっていないので、
飛び込む水音は聞こえない、
という駄洒落ですが、
ここへ寄って来る人は、
まだ俳句の道では
オタマジャクシに過ぎないという意もこめたつもりです。
私はそのオタマジャクシになる前のタマゴです。


◎  琵琶湖 

伊吹山へ登る前日、
午後3時に長浜を出航して竹生島に渡りました。
午前中、新幹線を米原で降りた時は、
ものすごい土砂降りだったのですが、
その頃の長浜には日が射していました。


伊吹山

船に乗る前に撮った伊吹山です。
山頂に少し雲が掛かっていますが、
この分なら明日は晴れるのでは?
と希望を抱かせたものです。


琵琶湖

琵琶湖の湖上に出るのは初めてです。
船に乗っている間はずっと晴れていましたから、
デッキからの景色を楽しみました。

長浜の町も伊吹山も遠ざかっていきます。
伊吹山の右方が関が原です。
左に12~3kmの所に小谷山があります。
そこには(今回行っていませんが)小谷城址があります。

昨夜の大河ドラマ「天地人」では
淀君が秀頼を懐妊したところでしたので、
その辺の人脈を
Wikipediaで確認しながら整理してみました。

小谷城は浅井氏3代の居城でした。
3代目の浅井長政の正室は織田信長の妹、
美人として誉れ高いお市の方です。

長政は信長に敗れて自決しますが、
お市は3人の姫たちと共に助けられ、
その後柴田勝家に子連れで嫁ぎます。

柴田勝家も秀吉に敗れて自刃。
お市も一緒に自害しましたが、
姫たちは助け出されます。

そして3人の姫たちは・・・
長女の茶々は秀吉の側室に、
初(はつ)は大名京極高次の正室に、
江(ごう)は徳川秀忠の正室になりました。

茶々は秀吉の後を継ぐ秀頼を生んで淀君となります。
初のことは知りませんが、
江は御台所となって3代将軍となる家光と
秀頼の正室となる千姫を生みました。

そして大阪夏の陣で、
豊臣方は徳川方に敗れ、
淀も秀頼も自害して果てます。
千姫だけは助け出されて再婚しました。

戦国時代の女たちの運命は過酷です。


琵琶湖

湖上には日が射し、
東の伊吹山の方は晴れていましたが、
南と西の方は黒く見えて
雨になっているようでした。


長浜城

湖上から長浜城も見えました。
遠かったのでトリミングして、
城を大きくしました。


琵琶湖

竹生島に着くと雨が待っていました。
島のことは後日にまわして・・・
長浜へ帰り着くとまた晴れてきて、
消えかかっていますが虹が見えました。


長浜城

長浜城へも行ってみました。
この城は秀吉が初めて城持ち大名となったときの城です。
その後山内一豊の居城となったこともあるそうです。
現在の建物は昭和58年に建てられたものです。


長浜城

この城は博物館になっていて、
「石田三成特集展」をやっていました。


◎  竹生島 

前回は湖上を船で行って、
帰ったことだけ紹介しましたが、
今日は竹生島をチョコッと紹介します。


竹生島

船が島に近づいてきました。
雨がポツポツと当たり始めました。
デッキが後部にありますから、
船が邪魔をして全景は撮れません。


竹生島

島へ降りると先ず傘を出したり、
雨支度です。

かなり急な石段を登ると本殿があります。
本尊は弁財天で、
厳島神社、江ノ島と並んで、
日本三大弁才天の1つに数えられているそうです。


竹生島

この門の奥は観音堂です。
そしてこの門は国宝で、
豊国廟(京都東山にあった豊臣秀吉の霊廟)
または伏見城の遺構を移築したものといわれるそうです。


竹生島

雨の中をぐるぐると見て廻り、
船着場に戻ると、
そこに琵琶湖周航の歌の歌碑がありました。


竹生島

待っていると迎えの船がやってきました。
定期の連絡船は終わっていて、
特別に出してくれた船です。
ツアー客37人+添乗員1人+長浜からのガイドさん2人=40人
が乗客です。

竹生島は無人島だそうで、
寺の方もみやげ物屋の人たちも、
通いだそうです。
われわれの船には乗ってきませんでしたから、
多分自家用の船で通っているのでしょう。


竹生島

到着時には撮れなかった島の全景です。


竹生島

神社仏閣、みやげ物屋は島の南側にありますから、
人間は南側にしか入りません。
北側にはカワウが沢山いて
糞害で木を枯らしているそうです。


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前回、
小谷城にまつわる女たちのことを書きました。

「小谷」と書くのに
「おたに」とか「こたに」とか
適当に入力して漢字に変換しましたが、
正式な読みは「おだに」だそうです。

浅井長政の「浅井」は「あさい」と入力していましたが、
こちらは「あざい」が正しい読みだそうです。

今までは勝手な読み方で記事を書いていました。
漢字さえ正しく出ればよいと思っていたのです。
試してみると、
「おだに」を変換すれば「小谷」がでますし、
「あざい」を変換すれば「浅井」になります。

因みに、
兵庫県加西市にある「小谷城」は「こだにじょう」と読むそうです。
これも試しに「こだに」を変換したら「小谷」になりました。


◎  醒ヶ井 

米原で新幹線を降りて、
長浜へ行く前に、
醒ヶ井(さめがい)に行きました。


醒ヶ井

中山道の宿場町だったところです。
米原でバスに乗るときはすごい豪雨でしたが、
少しずつ優しい降り方に変わってきました。
しかしまだ降っていますし、
先ほどの豪雨が記憶にあるから、
バスを降りて歩き始めたときは、
橋上の女性のように重装備の方も少なからずいました。
大勢いますから、
人それぞれで、
スカートに中ヒールの女性もいましたが・・・

幸いなことにだんだんと小止みになってきました。


醒ヶ井

中山道に沿って
地蔵川という小さな川が流れていて、
そこにバイカモが咲いているから、
見に行きましょうということでした。

朝からの雨で水かさは増して
濁っていました。
グラジオラスの鉢は増水で川に落ちたのでしょうか、


アジサイ

珍しくもないアジサイですが、
まだこんなにきれいに咲いていました。
この花には雨が似合います。


醒ヶ井

川でスイカを冷やしていました。
スイカの下手にある水草がバイカモです。


醒ヶ井

あまり花がついていませんが、
こんな風に川の流れになびいています。
水面すれすれに咲く花ですが、
水の反射でうまく撮れません。


バイカモ

バイカモ(梅花藻)
キンポウゲ科
清流にしか咲かないそうです。

さっきのスイカの橋の上に細長い木箱を置いて、
そこにバイカモを植えて咲かせていました。
ここの花は水面から出て咲いています。
観光客向けに置いてあるようでした。


醒ヶ井

川の反対側には
多少街道筋を感じさせる家があります。
みやげ物屋さんですが・・・


中山道は東海道と並ぶ
江戸と京都を結ぶ重要な街道です。
お江戸日本橋を出て1番目が板橋宿。
この醒ヶ井宿は61番目です。
そして草津宿(68番)、大津宿(69番)を経て、
京都三条大橋に到ります。


◎  横蔵寺 

ムクゲ

伊吹山などの旅の最後は岐阜県にある横蔵寺(よこくらじ)です。
投稿が時系列に沿っていませんでしたので
改めて整理すると、
東京→米原→醒ヶ井→長浜→竹生島→長浜→伊吹山→横蔵寺→岐阜羽島→東京
の順です。


横蔵寺

2日目の午前中に雨と霧の伊吹山へ登り(バスで)、
下ってくると晴れてきました。
関が原駅前で昼食をすませ、
午後は横蔵寺です。
地図を見ると大垣の真北へ約20kmのところにあります。
正面の緑の中に赤く見えるのは医王橋です。
この寺の本尊は薬師如来なのです。


横蔵寺

参道を登っていくと右側に見えた建物です。
境内図によると客殿のようです。
本堂が修理中ですっぽりと囲いがしてありましたので、
この辺が一番美しい建物でした。
秋の紅葉が見事だろうと思われます。


横蔵寺

三重塔。


横蔵寺

境内を流れる清流。
向こう岸にはアジサイが咲いていました。


宝物殿に数多くの仏像(重文)が並び、
舎利堂には妙心上人の舎利佛(ミイラ)が安置されていました。

妙心上人は天命元年(1781)横蔵村に生まれましたが、
両親の没後巡礼の旅に出て、
西国、坂東、秩父、四国の各札所を巡り、
やがて信濃の善光寺で受戒されました。
その後は富士山に登り、
富士講の先達を勤めましたが、
山梨の洞窟で断食し、
入定(聖者が死去すること)されました。

上人の遺体は村人によって祀られていましたが、
明治の初めに山梨県庁へ移され、
明治13年天皇行幸の際、
天覧に供されましたが、
そのとき故郷に戻すようのとの明治天皇のお言葉があって、
この横蔵寺に祀られることになりました。

全く人手を掛けていない
上人の信仰心のみによってミイラ化した坐像です。


◎  シナノキ 

志賀高原には
21のスキー場があるそうで、
それぞれに数多くの宿があって、
夏場には避暑やハイキングの客を受け入れています。
行ったのは焼額山スキー場のホテルですが、
すぐ隣に一の瀬スキー場があり、
この地域にシナノキの巨木があると聞いて見に行きました。

山道を2~30分歩いて辿りつきました。
途中には鉄のパイプを2本ぶら下げたものがあり、
それを鳴らしてシナノキに挨拶をして下さいと書いてありましたが、
本当は熊除けのようです。


シナノキ

木のそばに説明板がありましたので、
内容を紹介します。


長野県天然記念物
一の瀬のシナノキ

指定 平成13年3月29日

標高1650m、
ここ長野県下高井郡山ノ内町志賀高原、一の瀬に生息。
目通り幹周8m、樹高23m、樹齢800年と推定され、
長野県一の大きさを誇り、
全国的にも1、2位を争う巨木である。

シナノキは低山帯に生息するシナノキ科の落葉高木で、
木の内皮の繊維が強く柔軟なので、
かつては加工して、
紙、縄、蓑などを作っていた。

昔、京都に朝廷があったころ
和紙を献上することが多かったので、
シナノキを多産する国として、
『信濃(しなの)の地名の語源』になったとの説が長野県下にあり、
古来から信濃ゆかりの樹木として知られている。



シナノキ

巨大な幹は人の顔に見えるような気がします。

もう1枚立て札がありました。

木(ぼく)から人間様へお願い

私はシナノキです。
800年前に志賀高原に生まれ、
キハダやダケカンバなどの仲間と静かに暮らしていました。
この沢にはサンカヨウ、ツバメオモト、オオウバユリなど美しい花が咲きます。

昔からシナ布や和紙の材料にされたり、
明治の頃からは炭焼きの人が入り、
大勢の仲間が切り倒され、
いなくなりました。

私は何度か切り倒されかけましたが、
今もこうしていられるのは、
この山の主として見守ってきた
私の霊気を人々が感じたからでしょう。

その後、昭和29年頃から、
一の瀬の開発が進み、
静かだったこの辺もスキー場になってしまい、
かろうじてこの周りの森だけが残りました。

私を天然記念物として大切にしてくれるのはありがたいことでが、
長い間生きてこられたのは、
豊かな自然の生態系が保たれていたからなのです。

私も年をとり、
やがて枯れて土に返りますが、
私の子供や孫たちが、
安心して生育できるよう環境を保って欲しいと願っています。

因みに私の仲間のセイヨウシナノキをリンデンとかボダイジュなどと呼び、
釈迦がこの下で悟りを開いたといわれています。

シナノキより



シナノキについて少し調べて見ました。

図鑑を見ると、

シナノキ(科の木、級の木)
シナノキ科 シナノキ属

同属に、
ヘラノキ(箆の木)、
ボダイジュ(菩提樹)、
オオバボダイジュ(大葉菩提樹)
が載っています。


Wikipedia によれば、

菩提樹は木の名としては次の1.・2.・3.の意味で使われる。
1.インド原産のクワ科イチジク属の常緑高木インドボダイジュ。
2.中国原産のシナノキ科シナノキ属の落葉高木ボダイジュ。
3.2に近縁なヨーロッパ原産のセイヨウボダイジュなど、シナノキ属の植物

したがって、
釈迦が悟りを開いたのはクワ科の印度菩提樹の下であって、
シナノキ科の菩提樹の下ではないようです。

シューベルトの歌曲「菩提樹」はシナノキ科です。


◎  防衛省見学 


防衛省

今日は東京市ヶ谷にある防衛省の見学に行ってきました。
現在の防衛省というよりも、
主に過去の歴史を見せてくれました。


防衛省

ここの見学が主でしたが、
市ヶ谷台記念館です。

かつての陸軍士官学校本部として使われた建物で、
昭和20年8月、米軍に接収され、
翌年5月、講堂が東京裁判の法廷として使用されました。
昭和34年に返還され、
現在は記念館となっています。

左側に見えるポーチの上はベランダになっていて、
昭和45年11月25日、
ここで三島由紀夫は、
楯の会会長として自衛隊にクーデターを促し失敗、
右側建物内で割腹自殺を遂げました。

昭和40年、三島は雑誌「新潮」に
小説「豊饒の海」の連載を開始、
決起の朝、
最後の原稿jを出版社に届けてから、
ここを訪れたそうです。

「豊饒の海」は「夢と転生」がテーマで、
第1部「春の海」
第2部「奔馬」
第3部「暁の寺」
第4部「天人五衰」
からなる大作です。

私が読んだのは単行本でしたから、
事件のかなり後のことだったわけで、
「転生」の小説として記憶に残っています。

先日来のメタボリズム(転生)のこともあって、
割腹自殺の事件よりも、
この小説のことが心に浮かびました。

実は、
ある手術を受けて、
退院後の自宅療養中、
近所の方が「暇つぶしにお読みになったら」と、
まとめて4冊貸して下さったのでした。

長い年月を経て、
詳しい内容は忘れてしまいました(苦笑)。


◎  秘湯:松之山温泉 

10月下旬に松之山温泉に行ってきました。
パンフレットには「秘湯」とありましたが、
山奥に一軒だけある宿というわけでもありませんので、
「秘湯」の2字を入れたものかどうか、
思案してしまいました。


松之山温泉

古い宿ではありました。
昭和初期の建築だそうで、
木造3階建てです。
鉄筋のホテルでなくて、
こういう古い宿だということで人気があるので、
改築もままならないとのことです。
昔のままですから、
部屋にトイレはありません。


松之山温泉

決して女湯を盗み撮りしたわけでありませんので
誤解なさらないで下さい。
館内に貼ってあった松之山温泉のポスターです。

この宿の源泉は98度もあるそうで、
そのせいか湯温も高くて、
ぬるめが好きな私には熱すぎました。
湯の出口にひしゃくがおいてあり、
飲んでいた人がいましたので、
真似て飲んでみました。
かなりショッパイお湯でした。

貰った資料に書いてありました。

なぜ山の中の温泉なのに塩分が強いのか。
火山がないのになぜ90度の高温なのか。
なぞの多い松之山温泉――。
実は、
地殻の隆起運動によって閉じ込められた1200万年前の海水が、
マグマによって温められ、
地層の断裂から一気に湧出する「ジオプレッシャー型温泉」であるといわれ、
日本では珍しい温泉です。


ということで、
ほんのひと口ですが、
1200万年前の海水を飲むことができました。


松之山温泉

また資料にはこんなことも書いてありました。

「開湯700年の歴史の湯」
「日本三大薬湯の里」
新潟と長野の県境、
雪深い山あいにたたずむ「松之山温泉郷」。
室町時代には越後守護上杉家の隠し湯であったという説もあり、
その薬効は古くから知れ渡っていました。


そして上掲のような「諸国温泉効能鑑」(江戸時代後期)が載っていました。
東の大関は「草津」、
関脇は「那須」、
小結は「諏訪」で、
「松之山」は前頭13枚目です。

西の大関は「有馬」、
関脇は「城ノ崎」、
小結は「道後」です。

松之山は有馬、草津に次ぐ薬湯だから、
「日本三大薬湯の里」と称しているのだそうです。


松之山温泉

食堂は別館の新しい建物にあって、
夕食は畳の部屋でお膳が並び、
朝食はテーブルに椅子でした。

朝食の会場に飾ってあった屏風です。
まもなくこんな景色になるのでしょう。


松之山温泉

夜中に少し雨が降ったようでしたが、
朝になると次第に晴れてきました。


松之山温泉

玄関脇の部屋に飾ってありました。


◎  旅館の紅葉 

松之山温泉の朝(10/28)、
旅館周辺の紅葉です。


松之山温泉

昨日は旅館の夜景を載せましたが、
朝の光での撮影です。


松之山温泉

旅館の表側にあったモミジです。
表の方が日当たりがよいです。


松之山温泉

旅館の裏手にあったモミジです。
こちらは日当たりが悪く、
色づくのはこれからです。


松之山温泉

裏手に小さな池がありました。
上の写真のように、
木自体はまだいい色になっていないのですが、
池に落ちた葉がきれいです。


松之山温泉

新館はコンクリート造りです。
その壁を這うツタが綺麗な色をしていました。


◎  松之山 

先日、
松之山温泉について載せましたが、
今日はその付近の景色などです。


松之山

「キョロロの森」というのがありました。
里山歩きのコースが整備されています。
特にお見せするような写真も撮れなかったので、
コースの入り口にあったススキです。

「キョロロ」とはアカショウビンの鳴き声に因んでいるそうで、
アカショウビンは「このまちのシンボル」だとのことです。
この山の中で「まち」?
という気もしますが、
平成の大合併で日本中が「市」になったのです。

「キョロロの森」を紹介する陳列や食堂や売店のある建物があります。
そこの人たちに「アカショウビンを見たことありますか?」と聞いたら、
たいていの人が「見たことありません」といって苦笑いしていました。


松之山

「キョロロの森」のすぐ近くに「美人林」があります。
「ビジンリン」と読むのかと思ったら、
土地の人たちは「ビジンバヤシ」と呼んでいました。

樹齢80年のブナの林です。
ここは元来ブナ林だったのですが、
昭和初期、
木炭にするため、
すべてのブナが伐採され、
原野になったそうです。
その跡に若いブナが一斉に芽生えて育ったので、
均一な林になり、
木々のすらりとした立ち姿が美しいので、
「美人林」と呼ばれているとのことです。


松之山

以前に、
ブナで有名な白神山地へ行ったことがあります。
そのとき聞いた話(記憶が薄れていますが)では、
親木が枝を広げている間、
子の木は大きくなれず、
じっと我慢している。
やがて寿命がきて親が倒れると、
広い空間ができて、
日当たりがよくなるので、
子供たちはどんどんと成長する・・・

ここは親がいなくて、
子供だけで生きてきたわけですが、
もう少しすると、
強い木が大きくなり、
競争に負けた木は枯れて、
白神山地のような
自然の林になるのではないかと思っています。


松之山

もうひとつの景観は棚田です。
松之山には10箇所以上の棚田があるそうですが、
そのうちのひとつ、
星峠の棚田を見てきました。


松之山

棚田はダムと同じような働きをして水を蓄え、
地すべりも防ぐそうです。
耕作を放棄してしまうと、
そういう働きがなくなるので、
洪水、地すべりの危険が出てくるそうですが、
この地域では耕作が続けられているようで、
素晴らしいことだと思います。


松之山

最上段の比較的広い田で、
池のように見えました。


◎  見玉不動尊 

秘湯:松之山温泉から少し南へ(山の方へ)向かい、
秘境:秋山郷を訪れました。

ここは平家の落人が住み着いたといわれる秘境で、
東に苗場山、西に鳥兜山、
その間の山中、
信濃川の支流中津川の上流に沿った
南北約20kmの細長い地域です。

ちなみに信濃川は、
長野県内では千曲川と呼ばれ、
新潟県に入ると信濃川と名が変わります。
秋山郷は長野県と新潟県にまたがっています。
両県併せて十以上の集落があり、
それをまとめて秋山郷と呼びます。

新潟県側から入っていくと、
見玉という集落があり、
秋山郷の始まりです。
ここには見玉不動尊があります。

この不動様は<眼病平癒・家内安全>に霊験あらたかだそうです。
地元津南町のHPから抜粋して紹介します。

秋山郷の入口見玉にある天台宗のお寺です。
その由来は、
壇ノ浦の合戦で平家が滅びた翌文治2年、
平清盛の家臣宮本清左衛門がお告げによって
平家の守護神である不動明王を捧持して見玉村にいたって安置し、
自ら初代住職となりました。
昔から多くの眼病治癒の逸話が残っています。



見玉不動尊

仁王門。


見玉不動尊

仁王門を抜けて、
石段を登っていきますが、
参道の右側に滝のような急流があります。
かなりの水量ですが、
上に池などはなく、
湧き水が集まって流れているのだそうです。


見玉不動尊

70段の石段を登ると本堂があります。


見玉不動尊

仁王門の外にあったメグスリノキ(カエデ科)で、
大分紅葉が進んでいました。(10月27日)
樹皮を煎じて洗眼薬にするそうで、
眼病平癒の不動様の境内にふさわしい木です。


見玉不動尊

不動様の門前の田と山です。


◎  蛇淵の滝 

見玉から秋山郷の奥へ入って行き、
「蛇淵の滝」へ向かいました。
滝はそれほどのものでありませんでしたが、
途中の紅葉が見事でした。


蛇淵の滝

見玉を出てまもなく通過した集落です。


蛇淵の滝

途中の山の景色です。
走るバスの中からの撮影ですから、
よい景色のというわけでなく、
なんとか写っている写真ということです。


蛇淵の滝

これも同じくバスからです。
ワーッ素晴らしいと思っても、
すぐに木が出てきて邪魔をしたり、
道がカーブして景色が変ったり、
うまく撮れません。

というわけで、
素晴らしい紅葉は、
残念ながらお見せできません。


蛇淵の滝

ここから歩いて滝に向かいます。
左奥の方です。


蛇淵の滝

上の写真の中央左部を、
近づいてから望遠で切り取りました。


蛇淵の滝

山道を歩いていくと、
紅葉がきれいです。


蛇淵の滝

黄葉です。


蛇淵の滝

滝はそんなに大きくありませんでした。

蛇淵の滝。
その名前の由来は、
その昔秋山郷の熊取名人がこの付近に熊を追ってきて、
川にかけられた丸太を渡り終え、
ふと後ろを振り向いたところ、
それは丸太ではなく大蛇であった。
恐ろしさのあまり一目散に山道を逃げ去ったということで、
以来この滝を「蛇淵の滝」と呼ぶようになったと言われている。


とのことであります。


◎  秋山郷 

前回の滝から少し南に行くと「屋敷」という集落があります。
ここで秋山民俗資料館(個人経営)を観覧しました。
見たものよりも聞いたことを紹介します。

説明してくれたのは老人といってよい当主です。
今は、そんなことはないけれども、
昔(この人の親の代?)は、
ここに住む人たちは里の人から人間扱いされておらず、
「山猿」と呼ばれていた。

(つまり、里とは隔絶された世界だったわけです)
食べ物は栗や栃の実、粟、山菜などで、
厳しい生活だった。

それが現在では道路が通り、
医師や看護師が頻繁に巡回してくれるし、
安心して暮らせるようになった。
しかし子供たちは都会に出て行って帰ってこない。



秋山郷

その民俗資料館の窓から見た「布岩」です。
切り立った岸壁は柱状節理と呼ばれ、
溶岩が急速に冷えて固まった岩です。


秋山郷

布岩の下に広がる紅葉ですが、
枯れ木も多く見られました。


秋山郷

「屋敷」から更に進むと、
「切明」という秋山郷南端の集落があります。
ここから志賀高原に林道が通じています。


秋山郷

流れているのは中津川で、
立派なホテルが見えました。


秋山郷

この辺も枯れ木がかなり見られました。


秋山郷

もう一度秋山郷を通り抜けて帰途につきました。
中津川の本流、信濃川沿いの道路に出る頃には暗くなりました。
信濃川左岸の段丘に並んでいる樹木のシルエットです。


◎  妻籠宿 

11月9日、
木曾路へ、
妻籠宿と馬籠宿へ行ってきました。

妻籠が先きで、
あちらこちらと写真を撮って、
途中で昼食を取り、
それから馬籠。

馬籠はずーっと坂道です。
登りながら、
またあちこちと・・・
カメラがいうことを聞きません。。。
電池切れです。
とんだ不注意でした。

ということで、
写真は妻籠だけです。


1IMG_2694.jpg

妻籠は、
中山道の中でも江戸時代の面影が、
特に色濃く残っているそうです。
日本橋から42番目の宿場で、
ここ迄が信濃の国(長野県)、
次の馬籠から美濃の国(岐阜県)になります。


2IMG_2709.jpg

さっぱり人影が見えませんが、
居ない所(時)を狙って撮りました。
週日なのに、
結構な人数の観光客が来ています。
(おじいさん、おばあさんばかりですが・・・)


3IMG_2701.jpg

藁の馬です。
トロイの木馬はコンピューター・ウィルスとして有名ですが、
妻籠の藁馬は悪さをしないようです。


4IMG_2718.jpg

下駄屋さん。


5IMG_2730.jpg

こちらは何屋さんといえばよいのでしょうか?


6IMG_2737.jpg

宿屋だと思って、
撮ったのですが、
町中が妻籠宿なのですから、
「宿」の文字があったからといって、
宿屋とは限らないかも知れません。
でも、やっぱり宿屋のようです。


妻籠宿は中世からの宿場町で、
交通の要衝として栄えてきたそうですが、
明治以降、
国道や鉄道が宿場から離れて敷設されたため、
近代化から取り残されてしまいました。

しかし、
そのお陰で江戸時代の町並みが残り、
それを観光資源とすることで、
木曾ブームの火付け役になったそうです。

「禍福は糾える縄の如し」
とは、よくいったもので、
禍は福となり、
福は禍に変じます。



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