Photo & Essay

◎  池上本門寺 

本門寺

池上梅園で梅の撮影をしたあと本門寺へ行きました。
この寺は、
日蓮聖人が今から約七百十数年前の弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時頃)
61歳で入滅(臨終)された霊跡です。

日蓮聖人は、弘安5年9月8日9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、
病気療養のため常陸の湯に向かわれ、
その途中、
武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館で亡くなられました。

境内にある朗峰会館の中のレストランで月遅れの新年会をしました。
食事のあと、会館の裏手にあるお庭へ出てみました。


本門寺

これは小堀遠州の造園による池泉回遊式の庭園で、
松涛園といいます。


本門寺

ところどころにツバキが咲いていました。


本門寺

園内の通路から見上げる高みに石碑が建ててあります。
文字がよく読めないと思いますが、
「西郷、勝、両将会見の処」
と書いてあります。

通路脇に看板があって、
慶応4年(1868)3月、
倒幕軍の江戸城総攻撃を前に倒幕軍の首席参謀であった西郷隆盛と、
幕府軍の勝海舟がこの地で会見をし、
江戸城無血開城の交渉を行った。
会見は松濤園内の四阿(あずまや)で行われているが、
建物は現存しない。
この石碑は昭和16年に建てられたもので、
西郷隆盛の甥にあたる西郷従徳の揮毫になる。
なお、本門寺には倒幕軍の本陣がおかれていた。

と書いてありました。

今までこの会見は三田の薩摩屋敷で行われたと
聞いて(読んで)いましたから、
池上がその場所だという話は今回が始めてです。

検索で調べると
三田薩摩屋敷の西郷隆盛と勝海舟の江戸明渡しの会見は・・・
もっとも会見の場所は池上本門寺という説もあって、
いづれ秘密会見だろうから、
はっきりしたことは分からない。

と書いた記事がありました。

江戸城から池上まで直線距離で12㌔位ありまから、
会談場所としてはちょっと遠いような気がします。
江戸時代は三田が江戸の入り口だったそうですし、
江戸城から4~5㌔ですし、
三田説の方がいいように思いますが・・・
しかし一方、
極秘裏の会談だったのでしょうから、
江戸市中からこのくらい遠い方がよかったかも知れないし・・・


本門寺

園内に咲いていた梅です。
この日の午後は曇ってしまいました。
花も少ないし、
光も乏しいし、
淋しい梅でした。



◎  池上本門寺(続) 

本門寺の残りの写真です。


お雛様

食事をした朗峰会館のロビーに飾ってあったお雛様です。


桃の花

男雛の背後に影を写している桃の花です。


お掃除小坊主

山門の横にあったお掃除小坊主の像です。
台座に歌が書いてありました。

裏を見せ表を見せて散る紅葉


マンサク

松涛園に咲いていたマンサクです。
曇天のせいで輝く黄色が見られませんでした。


ツバキ

これも園内に咲いていたツバキですが、
少し年増のようです。



◎  牡丹の寺へ 

先日(4/22)ボタンを撮りにいったとき
牡丹の寺への行き帰りに撮った写真です。

牡丹の寺へ

途中に白いハナミズキが青空に映えていました。


牡丹の寺へ

赤いのも手前の緑のも、
モミジです。
(「モミジ」であって「紅葉=もみじ」でありません)


牡丹の寺へ

ナノハナ畑がありました。


牡丹の寺へ

寺に着くとボタンはまだ咲き始めでしたが、
ツツジは満開です。
赤いのはこれもモミジです。
ショウジョウでしょうか。


牡丹の寺へ

これもモミジの若葉です。
色がきれいに出ませんでしたので、
レタッチしてみましたが・・・
もっと輝いていたと思うのですが・・・


牡丹の寺へ

赤いツツジの向うに鎮座するのは弘法大師の像です。


牡丹の寺へ

今日はボタン以外の写真がメインなのですが、
折角ですから1枚だけ。


牡丹の寺へ

帰り道で撮りました。
行きは青空がバックでしたが、
今度は雑木林をバックに咲いていました。


牡丹の寺へ


◎  五百羅漢 

前回のシャクヤクは川越の仙波東照宮で撮りました。
この東照宮の隣に喜多院という大きな寺があります。
正確にいえば、
喜多院の隣に東照宮があるのです。

喜多院は830年慈覚大師によって創建され、
1599年天海僧正が第27世住職となりました。
天海は関ヶ原の戦い(1600年)で家康に参謀として近侍したそうです。
その後も家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担いました。
家康の死後も2代将軍徳川秀忠・3代徳川家光に仕えました。

仙波東照宮は1617年に家康の遺骸を久能山から日光へ運ぶ途中、
喜多院で法要が営まれたことにより、
1633年 に喜多院の隣に建立されました。

この喜多院には石の五百羅漢があります。
これは1782年から1825年にかけて建立されたもので、
全部で538体あるそうです。
その中で面白そう(といっては不敬ですが)な像を撮ってきました。


五百羅漢

「近頃の世相には胸が傷むわい」


五百羅漢

左側「あーもしもし・・・」
右側「ここで携帯を使っちゃいかんはずだが・・・」


五百羅漢

のどかな会話。


五百羅漢

アングルを変えると少し深刻そうに~


五百羅漢

「あの頃はよかったなあ・・・」


五百羅漢

談笑。


五百羅漢

「後期高齢者の保険料を年金から天引き?
そりゃ困るなあ・・・」


五百羅漢

「もう、我慢できんわい!」


五百羅漢

「ここだけの話だがな・・・」
「フンフン・・・」


勝手に会話を書いてみましたが、
どうぞ、ご自由に台詞を考えてみて下さい。


◎  長谷寺 

11月11日から13日まで関西方面へ行ってきました。
出発の日は5:30に家を出ました。
東京駅に集合、団体の旅です。
夫婦ばかり11組でした。

初日は奈良の長谷寺。
その晩は高野山に泊まって
2日目は高野山めぐり。
夕方に大阪まで行って泊まり
3日目は京都で御所見学などです。


長谷寺

新幹線に乗ると
富士山が見えるかどうか気になります。
快晴ではないのですが、
見えそうな予感がしていました。

走っている新幹線の窓越しですから、
電線や、運が悪いと電柱が突然入ってきたり、
するのですが、
何とか撮れた1枚です。

レンズは17~70mmのズームですから、
小さくしか写っていませんが、
大胆にトリミングしました。

名古屋で降りて、
後はバスです。
高速が渋滞して、
途中で一般道に降りて走ったり、
予定よりも遅く長谷寺に着きました。


長谷寺

仁王門を入ると登廊です。
春には右側にボタンが咲くのですが、
今は枯れ木です。


長谷寺

ところが1輪だけ咲いていました。
小さな花です。

春の花が遅れて咲いたのか、
冬の花が早く咲いたのか、
どうしたのでしょう。


長谷寺

本堂は撮影禁止です。
ご本尊は十一面観音で、
身の丈3丈3尺(10m余)もある立像です。

垂れ幕の奥にご本尊が安置されていて、
この女子高生たちがいる所は、
京都の清水寺と同じような舞台です。


長谷寺

女子高生たちの背後方向を
舞台から見下ろした風景です。
ご覧のように紅葉はまだまだです。
それに加えて曇り空ですから、
よくいえば落ち着いた眺め、
悪くいえばどんよりしています。


長谷寺

上の眺めの右側が山になっていて、
五重塔があります。
これも紅葉に中にあればよいのですが、
地味な風景でした。

でも女の子が2人いてくれたから、
多少絵になったでしょうか。


長谷寺

歩いて塔の下まで行って見ると、
モミジの枝先の葉が少しだけ赤くなっていました。
ささやかな風情です。


長谷寺

山を降りてきて、
ちょっとだけ紅葉のある風景です。
中央に見える紅葉した木はヤマボウシです。
日が射していればもっときれいなのでしょうが・・・


長谷寺

紅葉がまだ進んでいないせいでしょう、
門前の土産物屋さんが並ぶ通りも閑散としていました。
(近くにある室生寺は紅葉真っ盛りらしかったですが
コースに入っていませんでした)


◎  高野山 

長谷寺の参拝を終えて、
バスで高野山に向かいました。
日暮れが早いですから、
山を登る頃は真っ暗になりました。

高野山の標高は約900mだそうです。
上に登りつくと大門があります。
その大門の前に大きなデジタルの気温計があって、
6.7度を示していました。
夕方6時前です――山の上はやっぱり寒いです。

宿は、
高野山ですから宿坊です。
大きな和室に炬燵があり、
エアコンもありました。
両方を駆使して暖かくしました。

夕食はもちろん精進料理でした。
そして般若湯も頂きました。
美味しい酒でした。


高野山

夕食のあと、
給仕をしてくれた若いお坊さんが、
「根本大塔がライトアップされていますから、
行ってみたらいいですよ」
と教えてくれましたので、
夜道を歩いて行きました。


高野山

説明板に書いてありました。

根本大塔は弘法大師の遠大な構想によって創められたが、
その完成は大師以後となった。

雷火によって何回も焼け、
その都度再建された。
現在の塔は第6回目に昭和9年に再建された。
高さは48m余りの真言密教の宝塔すなわち大日如来塔である。

この塔は高野山を象徴する八葉蓮華としての山々の中台になぞらえられる。
すなわち高野山の教理上の中心としての大日如来を象徴するものである。
・・・・・・・・・・


高野山は周囲を山に囲まれた盆地なので、
周囲の山々を八葉蓮華とみなして、
弘法大師がこの地を選んだのだそうです。


高野山

塔の真上には十三夜の月が出ていました。
うっすらと雲がかかっていました。


高野山

大塔のそばにある鐘楼です。
白いのできれいに撮れました。


高野山

次の朝です。
6:30から朝の勤行があり、
ほとんどの人は参加しました。
本堂は火の気がないから寒いこと・・・

前庭のモミジに、
出発頃ようやく日が当ってきました。

今年は最初暖かかったせいで、
紅葉がまだらですと
お坊さんが説明していました。


高野山

お隣に高野山大学があり、
門のそばにモミジが1本立っていました。
この木にはよく日が当っていて、
赤と黄色に輝いていました。


高野山

昨夜の大塔の前にある金堂です。


高野山

大塔の隣にある御影堂です。

金堂、根本大塔、御影堂、鐘楼、その他にもいろいろな建物があります。
この地を壇上伽藍と呼び、
真言密教の思想を具現化した聖地であるとのことです。


高野山

次に金剛峰寺へ行きました。
文禄2年(1593)豊臣秀吉が亡母の菩提のために建立した寺だそうです。
中に「柳の間」という部屋があります。
秀吉に追放された前関白秀次が切腹を命じられ、
自刃して果てた部屋だそうです。


高野山

境内のモミジです。


◎  高野山(2) 

金剛峰寺の次は奥の院です。
弘法大師の御廟があって大師が眠っておられます。


高野山

奥の院に至る道の入り口です。
杉の巨木が立ち並ぶ参道を歩きました。

ここから一の橋、中の橋、御廟橋とあり、
御廟橋までの間には沢山のお墓があります。

新しいのはいろいろな会社の墓、
奥に進むと古い墓、大名の墓などがあります。
例えば織田信長の墓があり、
信長を討った明智光秀の墓があり、
その光秀を討った豊臣秀吉のはかがあります。

御廟橋から先は撮影禁止です。
上で大師はここに眠っていると書きましたが、
今なお生きておられます。
毎日2回食事が運ばれるそうです。
と、説明を聞いたいたら、
ちょうどそこへ若いお坊さんが2人で食事を運んできました。

写真が撮れれば一目瞭然なのですが、
説明すると難しいです。
三角屋根の付いた木製の箱に長い棒を通して、
駕籠のように後先を二人が肩で担いでいきました。
時刻ははっきりしませんが、
11時半頃だったと思います。
あと一回は何時頃なのか分かりません。
1200年近くもこうやって食事を運んできたのは凄いことです。


高野山

奥の院参拝のあとは往路とは別の道を辿りました。
お天気がよくて黄色や赤色のモミジがきれいでした。


高野山

入り口に戻り、
街に戻って昼食でした。


高野山

午後は霊宝館に行きました。
高野山には百を超えるお寺があるそうです。
各寺のお宝がここに集められています。

お庭のモミジがきれいでした。


高野山

これも霊宝館のモミジです。


高野山

霊宝館を出て大師教会へ行きました。
途中の歩道脇にこんな小坊主さんがいました。


高野山

大師教会で阿闍梨さまの法話を聞きました。
ここの境内にあった石碑です。

敦盛は今も十六盆供養     石楠

平の敦盛は笛の名手で、
一の谷の合戦で源氏方の武将、
熊谷直実に討たれました。
そのとき僅か十六歳。


◎  京都御所(1) 

11月13日京都御所の拝観です。
到着したのは10時半頃でした。
人波が押し寄せていましたが、
バスの駐車場はまだ数台しか停まっていませんでした。

写真の説明文で色を付けてあるのは、
立て札とパンフレットからのものですが、
何故か「ですます調」と「である調」が混在しています。


京都御所

宣秋門から入ります。
門の前にテントが張ってあり、
そこで(簡単でしたが)荷物検査です。


京都御所

「諸大夫の間」
正式に参内した者の控えの間です。
人形の題名は「和琴」。
奥に見える金地の屏風は「源氏の図」です。

和琴は日本が起源の弦楽器です。
日本古来の歌謡である国風歌舞などの演奏に用いられます。
「源氏物語」26帖では源氏が玉鬘に琴を教えています。



京都御所

「月華門」の置かれた牛車です。


京都御所

「承明門」から見る「紫宸殿」です。
ぐるりと回って、
写真の右側から「紫宸殿」に向かいます。


京都御所

「紫宸殿」に入る人の列。


京都御所

「紫宸殿」の正面です。

「紫宸殿」は即位の礼などの重要な儀式を執り行う最も格式の高い正殿である。
大正天皇、昭和天皇の即位礼もここで行われた。
中央に天皇の御座「高御座(タカミクラ)」、
その東に皇后の御座「御帳台(ミチョウダイ)」が置かれている。
今上天皇の即位礼の際は、
東京の宮殿に運ばれて使用された。



京都御所

「清涼殿」
室内がうまく撮れていないので、
置いてあった人形の写真です。

「清涼殿」は平安時代、
天皇が日常の御生活の場として使用された御殿である。
現在の建物は平安時代のものより小さくなっているが、
比較的よく古制を伝えている。


「清涼殿」といえば菅原道真の詩「九月十日」を思い出します。

去年今夜待清涼
秋思詩篇獨斷腸
恩賜御衣今在此
捧持毎日拜餘香

去年の今夜 清涼に待す
秋思の詩篇 獨り斷腸
恩賜の御衣 今此こに在り
捧持して毎日 餘香拝す

去年の今夜「清涼殿」で帝の側にあって
「秋思」の題で詩を作って天皇にほめられ、
褒美に御衣を賜ったが、
一年後の今日は大宰府に流され・・・


◎  京都御所(2) 

京都御所拝観の続きです。


「小御所」です。
皇太子の元服などの儀式に用いられ、
将軍や諸侯と対面される場所などにも使用された。
1867年(慶応3年)12月9日の王政復古の大号令が発せられた夜、
「小御所会議」が、
ここで行われた。
昭和29年に消失、
昭和33年に復元された。


「小御所会議」は新政府の会議。
激論の末、
徳川慶喜に辞官・納地を命じることが決定されました。

この結果、
慶喜はひたすら恭順、謹慎。
薩長軍は錦の御旗を掲げて江戸城へ迫る。
ちょうどドラマ「篤姫」でやっているところです。


京都御所

その「小御所」には、
「絵合せ」の人形5体が飾られていました。
左側に2人。


京都御所

右側に2人。


京都御所

中央に1人です。

「絵合せ」は左右に分かれて、
絵画等を出し合い優劣を競います。
「源氏物語」17帖では
藤壺中宮の御前で物語絵合せが行われました。


中央に座っているのは審判の女官でしょうか?
中宮はどこにいたのでしょうか?


京都御所

「御池庭」

池を中心とした回遊式庭園である。
前面は州浜で、
その中に舟着への飛石を置いている。
左手に欅橋が架かり、
対岸には樹木を配し、
苑内を回りながら様々な景色を楽しむことができる。


拝観者はこちら側からしか見ることができませんでした。


京都御所

「御学問所」
学問だけではなく、
親王宣下、月次の和歌の会などにも使われた。


「囲碁」の人形が展示されていました。
大宝律令(701年)の中に囲碁に関する項目があり、
奈良時代には盛んに打たれたようです。
正倉院に碁盤がおさめられています。
平安時代には貴族のたしなみとして好まれ、
「源氏物語」「枕草子」などの文芸作品にも
しばしば囲碁の描写が登場します。


大河ドラマで篤姫が碁を打つのも、
「貴族のたしなみ」だったのでしょうか?


京都御所

当日は快晴で、
白壁には木の枝が影を落としていました。


京都御所

白い山茶花が咲いていました。


京都御所

拝観を終えて出口に向かいました。
振り向くと「御学問所」の破風が見えました。


京都御所

「清所門」から退出します。
バスに戻ると、
降りたときはガラガラだった駐車場に、
ぎっしりとバスが並んでいてました。


◎  稲荷鬼王神社 

「新宿山の手七福神」の内、
最初に訪ねたのが稲荷鬼王神社(いなりきおうじんじゃ)です。
これは新宿歌舞伎町にありますが、
歓楽街の真ん中ではなく、
普通の町並みの中にありました。

七福神の内、
恵比寿さんを祀ってあります。


稲荷鬼王神社

大きなビルの下にひっそりとある、
という感じでしたが、
古くから信仰を集めてきた神社のようです。

次のような説明が書いてありました。

鬼は『鬼瓦』のように災いを近づけないという力を持つといわれ、
当社はその鬼の王様という意味の名を持つ事から、
江戸時代から盛んに厄除けが行われ、
現在でも江戸時代からの厄除けの伝統を守る数少ない神社として、
全国から多くの方が悪しき事を祓って良き年にしようと御祈祷にこられています。



稲荷鬼王神社

鳥居をくぐるとすぐに、
鬼が手水鉢を頭に載せていました。


稲荷鬼王神社

正面が稲荷さんです。
左手に赤い幟が立っていますが、
ここに恵比寿さんがあります。


今年の干支『丑』について書いてありましたので、
少し長いですが紹介します。
「社伝ゆえ本などに書かれている干支の話と違う事もあります」
という但し書きがありました。

「丑」という字は、
これまで曲がっていたものを伸ばす、
という意味があり、
また、結ぶ・つかむ
という意味もあります。
字の形は、
曲がりくねった枝が曲がりながらも伸びていく姿であり、
陰気が緩むのを待って手をさしあげて仕事を始める、
という字体です。

この「丑」に「糸」をつけると「紐(ひも)」になります。
人や仕事との縁(えにし)を、
より結ぶ力の強い「綱(つな)」にするには、
筋を通し、
正しく規律を守る事が大事です。

昔の時刻「丑」は今の午前2時にあたり、
夜明け前の物の判別もつかない暗闇の時間ですが、
信念を持つ者には、
来る夜明けを感じさせる希望の時間でもあります。
「丑のとき参り」の様に愛する人に不実をすれば報いがあります。
伴侶に不実な事をすれば、
仕事にも家庭にも実りがありません。


広辞苑から引用:
うしのとき‐まいり【丑の時参り】
嫉妬深い女がねたましく思う人をのろい殺すために、
丑の時(今の午前2時頃)に神社に参詣すること。
頭上に五徳をのせ、
蝋燭をともして、
手に釘と金鎚とを携え、
胸に鏡をつるし、
のろう人を模したわら人形を神木に打ち付ける。
7日目の満願の日には、
その人が死ぬと信ぜられた。


今年の干支の動物は「牛」です。
牛は農耕に古来より関わり、
単なる動物ではなく、
姿は力強さを表し、
多産的豊穣性は農業の豊作を促進し、
幸福をもたらす霊獣と古来より考えられてきました。

牛年生まれの人は犠牲的な精神が他人に理解されなかったり、
牛が怒りにかられると制御が難しい様に、
周囲の人に感情をぶつけてしまう事がありますが、
辛抱強く、
根気よいゆえに手先が器用で、
信用持ちで、
押しが強いという善性がある人が多いといいます。

今年は牛年の人に限らず、
人の指導にあたる場合は、
短所が長所につながる事もあるので、
短所をとがめるより長所を伸ばしましょう。

「牛にひかれて善光寺まいり」という言葉があるように、
偶然が良い方向に導かれる年ですが、
偶然をいかす普段の心がけが大事です。

今年の干支『丑』の御利益は、
☆努力の実る、伸長発展、心願成就
☆縁と幸せを結び、仕事にも家庭にも確かな実りをもたらす、商売繁盛、家運隆盛
です。



恵比寿神社

『丑』の話が長くなりましたが、
これが主目的の恵比寿神社です。


トウカエデ

次の布袋尊に向かって歩く途中、
新宿の街角には紅葉が残っていました。
先日閉じたコマ劇場はここから200mくらいの所にあります。


◎  太宗寺の地蔵菩薩像 

昨日は「内藤新宿」の話で終わってしまいましたが、
太宗寺のことは
昨日写真を載せた地蔵菩薩像から
始めたいと思います。
これも境内に掲示してあった文書からの抜粋です。


太宗寺

この地蔵菩薩像は、
江戸時代の前期に、
江戸の出入り口六箇所に造立された
「江戸六地蔵」のひとつです。

銅造で像高は267cm、
正徳2年(1712)9月に「江戸六地蔵」の3番目として
甲州街道沿いに造立されたものです。

「江戸六地蔵」は深川の地蔵坊正元が発願し、
江戸市中から多くの寄進者を得て造立したものです。
各像にはその名前が刻まれていますが、
その合計は7万2千人以上に及んでいました。


太宗寺

字が細かくて見えにくいですが、
台座部に刻まれた名前です。
像の肩部などにもぎっしりと刻み込まれていました。


ここ以外にある「江戸六地蔵」は、
品川寺(品川区南品川)
東禅寺(台東区東浅草)
真性寺(豊島区巣鴨)
霊巌寺(江東区白河)
永代寺(江東区富岡)
で、
このうち永代寺の像だけが現存していません。



地蔵菩薩像は境内の入り口にあります。
中に本堂と閻魔堂と不動堂があるのですが、
それについては次回とします。


白侘び助

お地蔵さまだけでは色気がありませんので、
全く別の場所での撮影ですが、
白の侘び助です。


◎  太宗寺 

前回に引き続いて太宗寺です。


太宗寺

お地蔵さまの隣に閻魔堂がありjました。
堂内には閻魔像と脱衣婆像が安置されています。


太宗寺

閻魔像ですが、
掲示板に載っていた写真ですから不鮮明です。

木造彩色、
総高550cmの巨像で、
目をむき大きな口をあけて見据える姿は拝観者を恐れさせ、
子供のしつけのため参拝されていました。



太宗寺

脱衣婆像です。

木造彩色で総高240cm。
明和3年(1870)の製作と伝えられます。

脱衣婆は閻魔大王に仕え、
三途の河を渡る亡者から衣服を剥ぎ取り、
罪の軽重を計ったとされます。

衣を剥ぐことから、
内藤新宿の妓楼の商売神として信仰されました。



太宗寺

閻魔堂の向かい側には不動堂があります。
この中には三日月不動像が安置され、
その前面に布袋尊像が置かれていました。


太宗寺

三日月不動尊像です。

額の上に銀製の三日月を持つため、
通称三日月不動を呼ばれます。

銅造で像高は194cm、
火炎光背の総高は243cm。
江戸時代の作ですが、
詳細は不明です。

寺伝によれば、
この像は高尾山薬王院に奉納するため甲州街道を運搬中、
休息のため立ち寄った太宗寺の境内で、
磐石のごとく動かなくたったため、
不動堂を建立して安置した伝えられています。

額上の三日月は「弦月の遍く照らし、
大空を駆ける飛禽の類に至るまで、
あまねく済度せん」
との誓願によるものといわれます。



太宗寺

ようやくにして、
布袋尊像です。
この寺へ来たのは、
七福神めぐりで、
この像を拝むのが目的でした。

布袋尊は中国の禅僧がモデルで、
豊かな暮らしと円満な家庭の守護神です。

新宿山の手七福神は、
昭和初期に有志によって創設されたもので、
太宗寺(布袋尊)
鬼王神社(恵比寿神)
永禄寺(福禄寿)
厳島神社(弁財天)
法善寺(寿老人)
経王寺(大黒天)
善国寺(毘沙門天)
の七ヶ所となっています。


全部の名前が出てきたところで、
新宿山の手七福神巡りは完結とさせて頂きます。


◎  正月風景 

光陰矢の如し。
どんどん日が過ぎて、
古いことになってしまいますが、
正月の2日、3日頃の風景です。

今年の正月は晴天に恵まれましたので、
ウォーキングを兼ねて初詣・七福神めぐりをしました。
あちこちの寺社での写真です。

正月風景

日当たりがよいのでしょう、
紅梅が咲いていました。


正月風景

倉嶋 厚さんのエッセイにこんなことが書いてありました。

北京の古い風習に「九九消寒」がある。
冬至の日に八十一個の梅の花びらを描き、
一日に一つずつ色を塗っていく。
そして九九・八十一の花びらの全部に色がつくと春になるというのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
冬至から数えて八十一日目は三月十二日ごろ、
たまたま、
春が始まるといわれている奈良・二月堂のお水取り・お松明の日でもある。


1月3日の写真ですから、
冬至から12日目でしかないのに、
沢山の花びらに色がついていました。


正月風景

可愛いので撮りましたが、
仏さまというより、
小坊主さんみたいですが、
なんと呼べばよいのでしょうか。


正月風景

こちらはお地蔵さまでしょう。
胸から腹にかけて
「念ずれば花開く」と書いてありました。


正月風景

上のお地蔵さまのあったお寺に咲いていました。
侘助でしょうか・・・


◎  目黒不動尊 

更新を怠けている内に日が過ぎて、
「一週間のご無沙汰」になってしまいました。
この台詞の玉置宏、
次いで藤田まこと、
同年代の人たちが相次いで逝ってしまいました。
寂しいことです。
ご冥福をお祈り致します。


2月7日に、
目黒のお不動さまへ初めていってみました。
正式には「泰叡山龍泉寺」というそうです。
入り口にあった説明文から抜き書きすると、

大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、
不動明王を本尊とし、
通称「目黒不動尊」と呼び親しまれています。
江戸時代には3代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、
それ以後幕府の厚い保護を受けました。
また五色不動(目黒、目白、目赤、目黄、目青)の一つとして広く人々の信仰を集め、
江戸近郊における有名な行楽地になり、
門前町とともに大いに賑わいました。
さらに江戸時代後期には富くじが行われるようになり、
湯島天神と谷中の感応寺と並んで「江戸の三富」と称されました。
裏山一帯は縄文時代から弥生時代迄の遺跡が確認され、
墓地には甘藷先生として知られる青木昆陽の墓があります。



目黒不動尊

仁王門です。


目黒不動尊

境内にはいくつものお堂がありましたが、
地蔵堂の前に紅梅が咲いていました。


目黒不動尊

石段を上って行くと、
更にその先の石段の上に本堂があります。


目黒不動尊

本堂庇の内側です。


目黒不動尊

大きな提灯を下から仰ぎ見たら、
「目」の字が見えなくなりました。


冒頭に引用したように、
五色不動(目黒、目白、目赤、目黄、目青)があるそうですが、
調べたら、
五色とも不動尊は存在しています。
目黒不動尊:目黒区下目黒
目白不動尊:豊島区高田(戦災以前は文京区関口にあった)
目赤不動尊:文京区本駒込
目黄不動尊:台東区三ノ輪
目青不動尊:世田谷区太子堂

この内の目黒、目白は地名でもありますので、
お不動さんの名とどういう関係になっているのか調べてみました。
Wikipediaによれば、

目黒の地名は目黒不動に因むという説もあるが、
古い地名であり、
地名に由来して目黒不動となった可能性は高いとみられている。
目白の地名は文京区目白台と豊島区目白があるが、
両者は近接した地域であり、
目白台に因んで目白不動になったとも、
目白不動に因んで目白の地名ができたとも言われる。
浅草にあった「明暦不動」が後になまってメキ(目黄)不動と呼ばれた。
目赤不動は伊賀国の赤目に由来する。
また赤目不動の置かれていた不動堂は動坂の地名を残している。
目青不動は青山の閻魔様を前身とする。


目黒、目白の地名は江戸時代以前からあったそうですから、
地名がお不動さんの名前に反映されたようです。
また赤目不動を目赤と読み替えたり、
青山の不動さんを青目としたり、
明暦→メキ→目黄としたりして、
五色揃えたように思われます。

五色とは密教の陰陽五行説に由来し重んじられた青・白・赤・黒・黄で
それぞれ五色は東・西・南・北・中央を表しているそうです。


◎  聖天宮 

4月下旬のよく晴れた日曜日に、
坂戸市にある聖天宮へ初めて行ってきました。

絢爛豪華な台湾の神社だと聞いていましたが、
それ以上のことは知りませんでした。


配置図

同じような建物が続きますので、
パンフレットから境内案内図をコピーしました。
天門の前に広いスペースがあり、
その外に塀がめぐっています。


天門

天門です。
これの左側に小屋があって、
そこで拝観料を払います。
300円でした。
ここで「聖天宮」の読み方を知りました。
「ショウテングウ」だと思っていたら、
「セイテンキュウ」と呼ぶのだそうです。

仏教の方に、
聖天さま、つまり聖天歓喜天(または歓喜天)という仏がありますが、
その像は「人身象頭二天抱擁」の姿が多いです。
つまり身体は人ですが、
頭部は象で、
二人が向き合って立ち、
しっかりと抱き合っています。
一体は男、他は女とされ、
恋愛成就・夫婦円満などの神として信仰されます。

そんな神を祀った神社かと思っていたのですが・・・
ショウテン様でありませんでした。


前殿

天門を入ると前庭があって、
その先に前殿があります。
向かって右端に鐘楼、
左端に鼓樓があります。


本殿

前殿を抜けると本殿です。
左側に立っている柱は避雷針です。

聖天宮(セイテンキュウ)についての説明を、
パンフレットから引用します。

聖天宮は、
中国台湾三大宗教(仏教、道教、儒教)のひとつ「道教」のお宮です。
日々の道徳を重んじ、
善行に報いる最高神「三清道祖(サンセイドウソ)」が本尊として祀られています。
開祖は台湾出身の康国典大法師です。
日本国内に現存する道教のお宮として
最大級の規模を誇り、
豪華絢爛な造りは天界の悠久の宮殿をイメージしたものです。
神様と皇帝の建造物しか使われない、
黄色い屋根瓦、龍は遠くから目を惹き、
屋根、天井、内装に及び、
多種多彩な彫刻が使われ、
類い稀なる美しさになっています。



道祖

本殿の中央に三清道祖が祀られています。
これについてもパンフレットから引用します。

道徳天尊:万物を導く道を司る。
夫婦円満、兄弟合好、良縁成就、交遊良好

元始天尊:万物の成り立ちを司る。
商売繁盛、病気平癒、合格成就、交通安全

霊寳天尊:万物の魂魄を司る
魂魄調和、精神集中、怨霊除去、怨念消沈


本殿の入り口に説明をしてくれる人がいました。
参拝の人は長い線香を立てます。
これが燃え尽きる迄40分程掛かるそうです。
その間じっとお祈りを捧げるのですが、
祈るというより、神様に報告するのだそうです。
例えば「商売繁盛」のことだとしたら、
こんなことがうまくいかなかった~~
こういう失敗をした~~
だから今度はこうやるつもりだ~~
などと具体的に報告するのだそうです。

聞いていて思いました。
たいていの日本人は神社で、
お賽銭をポンと投げて、
パチパチと柏手を打って、
それで商売繁盛、家内安全などなど祈ったことにしていますが、
そういう曖昧なお祈りに比べたら、
この祈り方は効き目がありそうです。

次回はこの続きです。


◎  聖天宮(2) 

聖天宮は道教のお宮。
では、その「道教」とは?
パンフレットから引用します。

道教は中国大陸で発祥した、
中国史の起源に遡る太古の民間信仰です。
神話の神々を起源とし、
後の世には三国志の英雄、
関羽候なども含む、
様々な神様が存在する多神教です。
道教は、
その発展の経緯から、
「神仙思想」と「老荘思想」という二つの面を持ち合わせています。

「神仙思想」とは、
神や仙人の世界に到達することを目的としたものであり、
特に不老不死の探求は漢方や気功とし、
練丹術は原始化学として、
火薬の発明に繋がりました。
「陰陽」「八卦」の概念も神仙思想より生まれ、
自然摂理や人の運命迄もを司るものとされ、
「風水」「占術」として現代にまで影響を与えています。

「老荘思想」とは、
老子や荘子などの思想家が「道(タオ)」を説いたものです。
「道」とは、
人智を超えた計り知れないものであり、
ことさらに知や欲を働かせる「人為」を無くし、
「無為」で「道」に従い生きることを説いています。
老荘思想を中心とした道教の世界観は、
Taoism(タオイズム)として、
東洋のみならず、
西洋でも根強い関心を集めています。
日本では平安時代に「陰陽道」「風水」など、
江戸時代は倫理道徳として捉えた「朱子学」を
「武士道」に取り入れたのがよく知られています。



聖天宮

前回の「境内案内図」の外にある塀と
狛犬(?)です。
この像の右側に見えるのが天門です。
金色の屋根は神様と皇帝の建造物にしか使うことができないそうです。


聖天宮

天門の上部です。
龍は皇帝の象徴だそうです。


聖天宮

鳳凰は皇后の象徴だそうです。


聖天宮

龍や鳳凰や花やその他の飾りはすべて色ガラスで作られています。
近づいて見るとガラスらしさが分かります。
(龍のひげは針金です)


聖天宮

本殿の正面上部です。
飾りも木材も石材も台湾から運んで来たとのことです。


聖天宮

前殿横の鼓樓です。
ここだけ登ることができます。


聖天宮

鼓樓から見下ろした天門です。
向うに見える緑の野はポピー畠だそうですが、
行った時(4月)には咲いていませんでした。


台湾の道教のお宮が、
何故ここに(埼玉県坂戸市)にあるのでしょう?
これもパンフレットからです。

聖天宮の建て主は康国典大法師。
40歳半ばにして不治の大病を患い、
ご本尊「三清道祖」と縁起をもたれたのを期に一命を取りとめ、
完治されました。

深謝の念と、
何人にも神様のご利益のあやかれるお宮を建てたく
建造の地を探していたところ、
なんと生国の台湾ではなく
日本国のこの地にとお告げを授かりました。

聖天宮の名、
佇まいや方角もお告げがあり、
当時、
正面の道も、
最寄りの若葉駅も
なかった雑木林のこの地を一から整地し、
昭和56年より着工に至りました。
台湾の一流の宮大工を呼び寄せ、
15年を掛け、
平成7年に聖天宮を開廟しました。


◎  奈良・平城宮跡(朱雀門) 

「平城遷都1300年祭」が11/7で終わるとのことなので、
見に行ってきました。

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朱雀門です。
復興は平成10年。
図面が残っていたわけでありませんから、
古い寺院の建築を参考にして設計したそうです。

実際にせんとくんがここにいたのではありません。
画面合成で立たせました。

2010年は、
わが国の本格的な首都「平城京」が誕生してから
1300年になります。

平城京の入口である羅城門から
75m幅の朱雀大路が北に向かってのびており、
その4km先に平城宮の正門である朱雀門が建っていました。

朱雀門の前では外国使節の送迎を行ったり、
時には大勢の人達が集まって歌垣なども行われました。
正月には天皇がこの門まで出向き、
新年のお祝いをすることもありました。
朱雀門の左右には高さ6mの築地がめぐり、
130haの広さの宮城をとりかこんでいました。

朱雀門は衛士によって守られ、
常時開いていたわけではありませんが、
宮の正門としての権威とともに
その雄姿を内外に誇示していたと思われます。

(「平城遷都1300年祭」HPより抜粋)


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この額の大きさは畳2枚分。
文字は上を大きく、
下を小さく書いてあるので、
ちょうどよい具合に見えるそうです。

額の費用は1400万円。
門全体で130億円。
(と、ボランテアのおじさんが説明してくれたと思いますが、
記憶力が減退しているので確かでありません)


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朱雀門の近くに「平城京歴史館」があって、
映像で解説してくれます。
館の外には遣唐使船が復元展示されています。


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次のように推定してこの船を造ったそうです。
奈良時代の資料に、
600人を4隻の船で派遣したとあるので、
1隻当り150人が船上で生活し、
そのための水や食料を積める大きさにした。

「吉備大臣入唐絵詞」という絵巻物に、
遣唐使船を描いた絵があるので、
それに似せた形にしてあるそうですが、
その絵は最後の派遣から400年も後に描かれているので、
実際の形を表しているという保証はないそうです。


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朱雀門のすぐ北側を近鉄電車が走っています。
その踏切を渡って大極殿に向かいます。
3km弱の道のりです。


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遠くに見えるのが大極殿です。
都があったころは、
この草原に建物が立ち並び(官庁街)、
1万人近くの役人が働いていたそうです。

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大極殿に近づくと、
こんな服装の女性がいました。
1300年前にタイムスリップする貸衣装です。
(パラソルは現代のもの)


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参考までに年表を記載します。

630 第1回遣唐使派遣。(894に廃止)
710 藤原京から平城京に遷都。
712 「古事記」完成。
717 第9回遣唐使(阿倍仲麻呂、吉備真備など)派遣。
720 「日本書紀」完成。
752 東大寺大仏開眼。
760~770 「万葉集」成立。
784 長岡京に遷都。
794 平安京に遷都。

つまり平城京に都が置かれたのは710~784でした。
(一時的に他の地に移ったこともありましたが)


◎  奈良・平城宮跡(大極殿) 

平城宮跡の続きです。

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大極殿に到着です。
これは朱雀門より大きな建物です。
費用も沢山掛かったことでしょう。
(全部国の予算だそうです)


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内部です。
中央に見えるのは高御倉(たかみくら)です。


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高御倉は天皇が即位や儀式の時に着座しましたが、
この展示物は現在京都御所にあるものを真似たそうで、
奈良時代の形は分からないようです。


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内部、周囲の小壁に
上村淳之さんが描いた四神(しじん)と十二支の絵があります。
これは青龍(せいりゅう)です。


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朱雀(すざく)です。


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白虎(びゃっこ)です。


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玄武(げんぶ)です。


四神は天の四方を司る霊獣で、四季をも表します。
青龍→東、春。
朱雀→南、夏。
白虎→西、秋。
玄武→北、冬。
(玄=黒)

朱雀門は南の門でした。


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平城宮跡とは無関係ですが、
上村淳之画伯の祖母に当たる上村松園の展覧会を先日見てきました。
17歳から70歳過ぎ迄の作品、すべて美人画です。

25歳頃の作品で「浴後美人」という絵がありました。
西洋画でいえばヌードです。
湯上がりの美女が片膝を立ててしゃがんだ姿で、
立てた膝に小さなタオル(手拭い?)が置いてあるだけ、
両の乳房もお尻も太ももも丸見えです。
美しいです・・・が、ふと思いました・・・「色気がない」
(美術史家は「色気」なんて云わずに「官能的」と云いますが~)

西洋画でこんな姿を描いたらとても官能的になるでしょう。
松園ほどの腕前なら、どうにでも描けると思います。
そうならないように描いたのでしょう。
そう思って見ると、
他の着物を着た姿からも同様の印象を受けました。

昭和18、19年(68~69歳)の作品がありました。
松園は京都に住んでいましたから、
空襲を受けることは、
結果的にはなかったわけですが、
戦争が激しくなり、
国内の大都市が空襲を受けるようになってきた時代に、
美人画を描いていた人が居たんだと、
感慨深いものがありました。
(松園を非難するつもりは毛頭ありません)

70点あまりの作品。
すべてが飛び切りの美人画。
贅沢をいうようですが、
飽きてしまいました。
美人もいいけれど、
やはり美人だけでは・・・
いろいろと混在している方が・・・



上を書いてしまってからWikipediaを見たら、
生涯、
「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」、
「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」(松園のことば)
を念願として女性を描き続けた。

と書いてありました。
また、
昭和20年奈良に疎開した。
とも書いてありました。


◎  奈良・平城宮跡(咲く花の) 

平城宮跡の続きです。

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大極殿の外周の欄干に宝珠が取り付けてありました。
青空を背景に赤い珠です。


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林の緑を背景にした黒い珠です。


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大極殿を後にして、
周囲にある施設や遺跡を見たりしました。


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広い草原ではススキがきれいでした。


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ススキだけでなく、
セイタカアワダチソウが負けずに咲き誇っています。
「八重桜」を「泡立草」に置き換えて、

あおによし 奈良の都の泡立草 けふ九重に 匂ひぬるかな

なんて、万葉集の現代版ができてしまいました。


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冗談はさておいて、
もう1首平城京が栄えた頃の万葉歌です。

あおによし 奈良の京(みやこ)は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

「英語で読む万葉集」(岩波新書)リービ英雄著
からリービさんの文を引用します。

ヨーロッパなどは暗黒の時代、
中国の長安に次いで、
スケールだけでなく「文明度」という意味でも
世界第二の都市だったといわれている奈良。
しかも、
大陸にひらかれていた島国の都市では、
大陸にない感性が大陸にないことばで表わされ、
大陸出身の歌人たちも交じってその表現に参加していた。
そう思うと、
「奈良」はさらに複雑な都市生活を想像させてくれた。

実際に現在まで残されてきた、
日本人の誰もが読める、
翻訳すれば世界の誰にも伝わることばの中で、
奈良の住人たちが、
「見て、私たちの京(みやこ)は今栄えている、
今盛りに達しているのである」
と自然界の比喩をもって訴えている。
自文化の誇示。
その都市が密な交流をもった他国のことを
どれほど意識していたのかは分からないが、
世界に向かって主張しているようにも響く。
しかし、近代のナショナリズムにありがちな、
陰鬱で排他的な自己主張とはまったく違う。
その主張の声はじつにおおらかである。

「咲く花の にほふがことく 今盛りなり」。
都市の「盛り」が自然界の比喩によって表現を得て、
明るい
そして不思議なほど、
それが普遍性を帯びたことばとして伝わる。


ちなみに「世界の誰にも伝わる」という英訳は、

The capital at Nara,
beautiful in green earth,
flourishes now
like the luster
of the flowers in bloom.


先日NHKが奈良から実況中継した番組で、
奈良出身の画家、絹谷 幸二氏は、
「現在奈良の街で見かけるのと同じくらい、
平城京にも外国人の姿があった」
という意味のことをいっておられました。
国際都市だったのですね。


◎  奈良・平城宮跡(東院庭園) 

平城宮跡の最終回です。

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平城宮跡の東側にある東院の庭園跡。
発掘調査に基づいて、
建物、池、橋、植物などを復元したものだそうです。

入り口に至るスペースに
花かごが多数並べてありました。


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園内に入ると東に向かって小径があります。


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小径の左側に池、建物、橋が復元されています。


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小径の正面に見えていた建物です。
園内は反時計方向に一周できるようになっています。


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園内を一周して、
外に出て来て、
もう一度花かごを撮りました。


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平城京の地図です。
平城宮の右隣に法華寺(緑色---東院庭園と隣り合わせ)があり、
その下に長屋王(ながやのおおきみ)邸(濃い黄色)があります。

平城宮跡の見学を終えて外に出ると間もなく、
大きな建物がありました。
イトーヨーカ堂(かつてはそごうデパート)で、
これが長屋王邸跡です。

東大寺が全国の総国分寺であるのに対して、
総国分尼寺である法華寺は、
藤原不人比等(ふひと)の屋敷跡を光明皇后が寺にしたものです。

政治的には不比等(鎌足の子)がナンバーワン、
長屋王(天武天皇の孫)がナンバーツーの位置にありましたが、
不比等の死後、
藤原氏の4人の息子たちがまだ若かったので、
長屋王が政治の実権を握りました。

やがて讒言によって、
長屋王は自決させられ、
王の一族は皆殺しにされました。
藤原氏が実権を取り戻し、
聖武天皇の夫人だった光明子(不比等の娘)を
皇后の位につけました。(光明皇后)
藤原氏の栄華の始まりです。

藤原兄弟が相次いで天然痘で死んだのを、
人々は「長屋王のたたり」といったそうです。

そして、長い歳月が流れ・・・
この地にそごうデパートが建つことになったとき、
発掘調査(1986~1989)が行われ、
貴族の邸宅址と多数の木簡などの遺物が出土して、
長屋王邸址と判明しました。
地元や研究者の反対にもかかわらず建設は強行され、
遺構の多くが破壊されたそうです。

そごうデパートが不振のため閉店することになったとき、
街の人たちは「長屋王のたたり」だとささやき合ったそうです。
イトーヨーカ堂に「たたり」はないのでしょうか?
店には入って見ませんでした。


◎  金戒光明寺 

奈良からの帰りに京都へ寄って、
金戒光明寺へ行ってみました。
初めてです。

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山門です。


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山門を通して奥の御影堂を撮りました。
ほんのりと紅葉し始めたばかりです。(10月20日)


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寺の内部を拝観してお庭に出ました。
庭への出入り口にお坊さんがいて、
「あの坂を登った所から撮った写真が、
JR東海のポスターに使われています」
と説明してくれました。

その坂を登っていくと、
ボランティア・ガイドのおじさんがいて、
同じことをいいます。
「皆さんもここから撮ったらいい。
ポスターと同じ写真になる。
葉っぱの色が違うだけです」

ポスターは見ていませんが、
多分、紅葉真っ盛りの写真なのでしょう。
しかし只今現在は全くの緑です。

ガイドさんは続けます。
「皆さんはデジカメで撮っていくんでしょ。
家に帰ったら、
パソコンで赤くすればいい」


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ガイドさんの云うようにパソコンで赤くしてみました。(*^。^*)

金戒光明寺を出たあと、
近くの真如堂へ行きました。
ここも紅葉はの名所のようですが、
全くの緑一色でした。


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真如堂の紅葉 (1)


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真如堂の紅葉 (2)


2枚ともパソコンで青葉を紅葉に変えました。
こういうことをやってみると、
「写真」は「真を写す」と書くけど、
一体何だろう?
と思ってしまいます。

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今朝(11/6)この記事を投稿して外出したら、
JRの大きな駅でポスターを見つけましたので、
ケータイで撮ってきました。
寺の人やガイドのおじさんがいう通りのポイントからの写真です。
(縦の構図とは知りませんでした)


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◎  東照宮 

日光では、
まず輪王寺の本堂、三仏堂を拝観しました。
三仏は、向かって右から、
千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音と
三体の巨大な仏像が並んでいます。

この後、東照宮に向かいました。

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石塔の向かうに小さく写っているのが「石鳥居」です。


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「神厩舎」の「三猿」です。

ウィキペディアによれば、
3匹の猿というモチーフ自体は古代エジプトにも見られるもので、
シルクロードを経由して中国から伝わったものだという見解がある。

『論語』の一節に
「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動」
(礼にあらざれば視るなかれ、
礼にあらざれば聴くなかれ、
礼にあらざれば言うなかれ、
礼にあらざればおこなうなかれ)があり、
中国では
今日でも妊娠中の女性は胎教の観点から
「目は悪色を視ず、耳は淫声を聴かず、口は敖言を出さず」
という戒めを受ける。

朝鮮半島においても、
結婚前の女性は
「見ても見ぬふり、聞いても聞こえないふりをして、言いたくても言うな」
と教育される。

インドのマハトマ・ガンディーは常に3匹の猿の像を身につけ
「悪を見るな、悪を聞くな、悪を言うな」と教えたとされており、
教科書などに「ガンディーの3猿」が掲載されている。

またアメリカ合衆国では
教会の日曜学校などで三猿を用い
猥褻なものを見たり、
性的な噂を聴いたり、
嘘や卑猥なことを言わないよう諭すことがある。

とのことです。


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「三神庫」の「象」です。
狩野探幽が描いた「想像の象」を彫刻にしたものだそうです。


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「陽明門」です。
この門の中の本殿(御本社)は平成の大修理とかで、
幕が掛けてありました。

「三猿」と並んで有名なのが「眠り猫」ですが、
これを見るには追加料金が要るとのことで、
見ていません。


◎  浅草寺 

9月28日スカイツリーを撮りに行きました。
沢山撮りましたが、
どこから撮っても同じようで・・・
その内に掲載しますが、
今日は最初に立ち寄った浅草寺です。


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雷門

大提灯の前は記念撮影の人たちでごった返していました。
外人も結構沢山居ましたし、
子供たちも大人たちも・・・
震災で減ったという観光客も戻りつつあるようです。


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宝蔵門

雷門を抜けて、仲見世を通り過ぎると大きな門があります。
名前はnetで調べて、初めて知りました。


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大草鞋とスカイツリー

宝蔵門の裏側に大草鞋がぶら下がっていて、
その横に今日の目的であるスカイツリーが見えました。


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五重塔

スカイツリーの反対側には五重塔があります。
昔はずいぶん高い建物だったのでしょうが、
スカイツリーが出来てしまっては・・・


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9代目市川団十郎像

同行のSさんが本堂の裏手に銅像があるといって案内してくれました。
浅草寺には何度も行っていますが、
この像は知りませんでした。
碑文から抜き書きすると、

大正8年、明治の名優9代目市川団十郎の
歌舞伎18番「暫」の銅像が作られた。
ところが昭和19年11月30日に、
金属回収のため供出された。
この度(昭和61年11月3日)12代市川団十郎襲名を機に、
復元の機運が高まり、再現された。


「金属回収」なんて、今の人は知らないでしょうが、
戦争中、鉄、銅などの金属が不足したので、
各地の銅像や寺の釣鐘や家庭の火鉢などが強制的に供出させられました。


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句碑

二天門から境内を出ましたが、
出る途中に句碑が並んでいました。

竹馬や いろはにほへと ちりぢりに    久保田万太郎

生きるという ことむづかしき 夜寒かな    川口松太郎




◎  南禅寺 

11/30~12/2、
京都へ行ってきました。
紅葉を楽しむには1週間遅かったようですが、
急に決めた旅なので仕方ありません。
往きの新幹線の中で当日の計画を考える、
次の日の計画は、
ホテルで天気予報を見ながら考える、
というドロナ式旅程です。
結局、ありふれた、有名なお寺を巡ることになりました。
もっと事前計画を立てておけばよかったのですが・・・

1日目は午後だけなので、
そして秋の日は短かいので、
簡単に行けるところということで、
まず南禅寺です。


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モミジは、
どこで撮ってもモミジです。
京都らしく色づくわけでもありません。

京都といえばお寺になるから、
その建物とモミジ、
屋根や土塀の瓦とモミジ、
という図柄になります。
これだって、
京都以外のお寺と違いは出てきません。


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サクラの紅葉です。


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南禅寺の山門。
「絶景かな絶景かな……」という歌舞伎での
石川五右衛門の科白で有名な門です。

矩形の隙間から見たモミジを撮ろうと考えていたのですが、
外人のご夫婦がやってきたので、
これもいいかと・・・


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お天気もうよく、
気温も上がり、
暑いくらいでした。
車椅子の人ものんびりと・・・


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赤い葉ばかり見ていると、
黄色の葉が美しく見えてきます。
これは赤と黄と混じった葉でした。


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手前の人が和服の女性を撮っていて、
その向うの赤い帽子の人はモミジを撮っていて、
その3人全部を撮っているのが私です。


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観光バスも沢山来ていて、
境内は込み合っていたのですが、
この辺は隅っこで、
誰もいません。


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最後に1枚、
花もモミジもない、
人影も見えない、
竹ばかりの写真です。

以上すべて南禅寺でした。
ここから程近い永観堂へ歩きました。
それは次回に。


◎  銀閣寺 

ジイサン、バアサン、修学旅行の中学生、それに若い人たちもいて、
混雑している細い参道(仲見世?)を抜けると銀閣寺です。
もう黄昏てきたのですが、
閉門まで、まだ1時間チョッとあるので、
中に入りました。


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「銀閣」と呼ばれる観音殿(かんのんでん)です。
金箔を貼った「金閣」に対して「銀閣」と呼ばれ、
寺全体を銀閣寺と俗称されていますが、
正式な寺の名は東山慈照寺というそうです。

Wikipedia によると、
銀閣とはいうものの、
現在銀箔は貼ってないし、
創建以来貼られたことはないそうです。


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前庭に砂を盛った円錐状の山があります。
「向月台」というそうです。

パンフレットの写真は、
銀閣(観音殿)の手前に向月台を配していますが、
そういう構図では拝観の客がぞろぞろと入ってしまうので、
それを避けて別々に撮りました。


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向月台の隣には
銀沙灘(ぎんしゃだん)と呼ばれる砂盛りが広がっています。

銀閣寺のパンフレットにはこんな風に書いてあります。
波紋を表現した銀沙灘と
白砂の富士山型の向月台とのコントラストは人々を魅了する。


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庭園です。


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ローマのトレビの泉の真似でしょうか、
庭園の池に沢山の硬貨が投げ込まれていました。
どんなご利益があるのでしょう?
1円玉が多いですから、
たいしたご利益は期待できないようですが・・・


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東求堂(とうぐどう)です。
足利義政の持仏堂だったそうで、
ここに入るには別途の拝観料が必要です。
以前に何度か入っていますし、
日暮れが近く、
時間がありませんので
今回は入りませんでした。


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庭を通り過ぎると山道にかかります。
1枚目の写真は銀閣を見上げる構図でしたが、
山に登れば俯瞰することができます。
銀閣背後のビル群が木立に隠れてしまうポイントがありました。
夕暮れが迫って、
遠景がぼんやりとしか写らないのも幸いでした。


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出口に近づいた所で撮った銀閣の屋根の鳳凰です。
トリミングして、
明るくしたら鳳凰らしくなりました。
シルエットでは、
雄鶏が時を作っているように見えていました。

これで1日目は終わりです。
寺を出て、
バス停の行列に加わりました。
すぐ後に並んだ人(男の一人旅)が、
「京都の紅葉見物は、
今日で3日目です。
あと2日どこへ行こうか思案中です。
昨日嵐山へ行ったらきれいな所がありましたよ」
と教えてくれました。

これで次の日の方針は、
ほぼ決定です。
(基本計画のない、いい加減な旅なのです)
ホテルへ行って、
明日の天気予報を見て、
最終決定です。



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