Photo & Essay

◎  ミモザ 

今年もミモザが咲いたと聞いて、
撮ってきたのが3月15日ですから、
ちょっと古いネタになります。


ミモザ

ミモザと呼んでいますが、
この木は正しくは
「ギンヨウアカシア」(マメ科 アカシア属)
です。

アカシアとミモザの関係は昨年に詳しく書きましたので、
昨年の記事を読んでいない方は、
よろしかったら「ミモザ」をご覧下さい。


ミモザ

記事を昨年のもので間に合わせるのなら、
写真もそれでよかったのではないかと・・・
という気がしてきます。

同じ木を同じ人間がいつもの通りに撮っていては、
変わり栄えしないわけです。
オバマさんみたいに"change"と叫ばなければ・・・


ミモザ

アカシアともミモザとも無関係の話です。

先日パスポートの更新申請に行ってきました。
外国へ行くときに必要なことは当然ですが、
自分が自分であることを証明するために必要です。
以前は保険証でたいてい間に合いましたが、
最近は写真入りのものでないと・・・
免許証を持っていないので、
どうしても必要なのです。


ミモザ

考えてみると、
自分が自分であることを証明するのは難しいことです。
パスポートや免許証で済めば簡単だともいえます。


◎  ボクハンツバキ 

航空記念公園お茶室の椿です。
大分前に咲いていましたから、
もう終わった頃だと思っていたら、
まだ咲いていました。
ハクモクレンやコブシと違って、
次々と咲くから花期が長いですね。


ボクハンツバキ

名札は下がっていませんが、
「卜伴(ボクハン)」だと思います。

オシベ全体が小花弁状になっていますが、
これを唐子咲きと呼びます。


ボクハンツバキ

「卜伴」は園芸品種で、
江戸時代初期
すでに人気品種だったそうです。

卜伴という茶人が植えて、
秘蔵していたとのことです・


ボクハンツバキ

唐子の白いもの(卜伴)の他に、
赤い唐子の花(卜伴錦)もあります。
京都では白唐子を「月光(がっこう)」、
赤唐子を「日光(じっこう)」と呼ぶそうです。


ボクハンツバキ

この「日光」は数年前に京都二条城の庭で撮りました。


1枚目と3枚目の写真には花弁に白い斑が入っています。
白斑入りを「星入り卜伴」と呼ぶそうです。
2枚目も同じ木の花ですが、
白斑が入っていません。
これが本来の「卜伴」の色だということになります。


◎  コブシ 

先日のハクモクレンと同じ日の撮影です。


1_IGP3100.jpg

遠くからは満開の桜かと思う咲き方です。


2_IGP3110.jpg

コブシ
モクレン科 モクレン属


3_IGP3105.jpg

コブシと聞いて思い出すのは、
千昌夫の「北国の春」です。

白樺 青空 南風
こぶし咲くあの丘 北国の
ああ 北国の春
季節が都会ではわからないだろうと
届いたおふくろの小さな包み
あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな



4_IGP3109.jpg

広辞苑には、
材は緻密で器具・建築に、
蕾は鎮静・鎮痛剤に、
花は香水の原料に、
樹皮・枝葉からはこぶし油をとる。

と書いてありました。
使い道の多い木です。


5_IGP3104.jpg

この花もハクモクレンと同じで、
あっという間に茶色に変色して、
散っていきます。
ほんとに「花のいのちは短くて・・・」です。


◎  ハコベ 

はこべ

ハコベ
ナデシコ科 ハコベ属

ハコベと聞いて思い出すのは、
島崎藤村の「千曲川旅情の歌」です。
この詩には確かハコベが出てきた・・・と。

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なす蘩蔞(はこべ)は萌えず
若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾の岡辺
日に溶けて淡雪流る


よく読むと、
ハコベは萌えずですから、
萌え出ていません。
若草も藉くによしなし
(藉は敷物のことで、「藉く」は「敷く」と同じ意味です)
つまり若草を敷物にするわけにもいかない。
なんとなれば、
岡辺は雪で銀世界だからです。

ハコベという言葉は出てきますが、
そこにハコベは萌え出ていないのです。
それなのに、
ハコベと聞くと
この詩を思い出す。
不思議な気がします。


はこべ

ハコベは春の七草のひとつで、
その場合はハコベラと呼びます。
七草として人間も食べますが、
小鳥やひよこの餌に利用されるので、
ヒヨコグサとも呼ばれます。
因みに英語でもchick(ひよこ)weed(草)といいます。

花弁は10枚あるように見えますが、
5枚の花弁がそれぞれ2分裂しているので、
花弁の数は5枚が正解だそうです。


◎  ハクモクレン 

土曜日(21日)に
ハクモクレンを撮りに行きました。
茶色くなりかけている花もありましたが、
何とか間に合いました。


ハクモクレン

ハクモクレン(ハクレン)
モクレン科 モクレン属


ハクモクレン

花弁を数えたことはありませんが、
図鑑を見ると、
花弁が6枚で、
萼片が3枚だそうです。
「花弁と萼片は区別しにくい」と書いてあります。
一番外側のが萼片なのでしょうが・・・


ハクモクレン

大空に木蓮の花のゆらぐかな     虚子


ハクモクレン

白木蓮(ハクレン)の散るべく風にさからへる     汀女


ハクモクレン

木蓮の風うけてものいふごとし     不如丘


ハクモクレン

木蓮に日強くて風さだまらず     蛇笏

歳時記から
俳句をいくつか載せましたが、
木蓮と風とを詠んだ句が多いですね。
風の季節なのでしょう。

写真は静止した姿を捉えていますが、
最後の句の通りの日でした。


◎  吉川英治記念館 

梅の里「吉野梅郷」をぶらぶらと歩いて行くと、
吉川英治記念館があります。


吉川英治記念館

英治は昭和19年3月に東京赤坂から、
この地、西多摩郡吉野村へ疎開しました。
ここで「新書太閤記」を書いたそうです。


吉川英治記念館

母屋です。
ずいぶん大きな純和風の家です。
もう少し梅が開いていれば・・・


吉川英治記念館

書斎です。
母屋の左奥にある離れです。
執筆中はここにこもり切りだったそうです。
戦後、昭和25年に晩年の大作、
「新・平家物語」をここで起稿。
そして昭和28年8月品川に移りました。

「神州天馬俠」など少年向けのものや、
「宮本武蔵」「新書太閤記」など
戦前、戦中の作品はずいぶん愛読しましたが、
「新・平家物語」「私本太平記」など、
戦後の作品は読んでいません。
読んだ、読まないの別は、
その本が家にあったか、
なかったかによっています。


吉川英治記念館

左が椎の大木で、
右の建物から展示室に入ります。


吉川英治記念館

展示品を撮影しても差し支えなかったのかな、
と今になって思っていますが・・・
英治は俳句も川柳も作りました。

「若き日の川柳」として4句が展示されていました。

この先を考へてゐる豆之蔓

柳原涙のあとや酒のしみ

世の中におふくろほど(な)不しあわせ

貧しさも余りの果ては笑ひあひ


最後の句は有名です。


吉川英治記念館

庭に紅梅が咲いていました。
この石像がなんであるかはわかりません。


吉川英治記念館

白梅もありました。


紅梅苑

吉川英治は紅梅を愛したそうです。
それで夫人が紅梅にちなんだ和菓子を創り、
昭和58年に店を始めました。
記念館とは別の場所、
日向和田の駅から梅の公園に向かう途中にあります。


紅梅苑

紅梅苑の白壁と紅梅です。


◎  吉野梅郷 

先週3月11日、梅見に行ってきました。
その日も暖かだったのですが、
その後暖かい日が続き、
西の方では桜が開花しました。
早く梅の写真を掲載しないと時期遅れになりそうです。

吉野梅郷は東京都青梅市にあります。
昔は吉野村と呼ばれた地域だそうです。
電車はJR青梅駅で奥多摩行きに乗り換えます。
これは1時間に2本しか出ませんので、
青梅駅で待ち合わせ時間がありました。


青梅駅

ホームには古い映画の看板がありました。
帰ってから調べると、
青梅市は昭和の町として、
市をあげて青梅駅周辺を昭和レトロ化しているそうで、
2005年3月2日に「レトロステーション」青梅駅としてオープンし、
ホームと駅舎を結ぶ地下道に昭和風の装飾がされているそうです。
駅舎内を回ってみれば、
もっと面白いものがあったのかも知れませんが・・・

梅も満開間近ということで、
青梅発の電車は通勤電車並みの混雑になりました。
ほとんど全員が老々男女です。
日向和田駅に着くと皆が降りて、
ガラガラになりました。


吉野梅郷

吉野梅郷は日向和田駅から二俣尾駅までの多摩川南側の、
東西4キロメートルに広がる地域で、
青梅市梅の公園をはじめ、
地元農家の梅園や吉川英治記念館などがあります。
毎年2月下旬から3月31日まで、
吉野梅郷梅まつりが行われ、
紅梅・白梅合わせて2万5千本もが花をつけます。


吉野梅郷

青梅市梅の公園は吉野梅郷の中にある
山の斜面を利用した自然公園で、
120品種、1,500本の梅があるそうです。
入ると山道を登って行きます。


吉野梅郷

紅梅と白梅とが混せて植えられています。


吉野梅郷

こうして見ると、
満開には至っていないようです。


吉野梅郷

上を見上げながら歩く女性たち。


吉野梅郷

一通り歩き回って公園を出ました。
観光バスも沢山きています。
ガイドが付いたり、
添乗員が旗を持って先頭に立ったりして、
登っていきました。


吉野梅郷

梅の公園になっている山の反対側にも小山があります。
そこに登って、
さっき歩いた梅の山を撮りました。


◎  「敵艦見ユ」 

大瀬崎の案内板に、
「喜びも悲しみも幾歳月」のことは書いてありませんでしたが、
断崖のこと、燈台のことを書いた後、
明治31(1898)年には、
当地に無線電信機を備えた旧海軍の望楼が設置されており、
1905(明治28)年、日露戦争時に、
ロシアのバルチック艦隊発見の報「敵艦見ユ」を受信している。

と書いてありました。
Wikipediaなどで調べたことを書いてみます。

マルコーニが無線電信技術を発明したのは1894年頃のことです。
そして日本海軍は1903(明治36)年に、
当時としては世界最高といわれた三六式無線電信機を開発し
連合艦隊の全艦に設置しました。
これが日露戦争で活躍することになります。

ロシア帝国は日本海の制海権を確保しようと、
バルチック艦隊をウラジオストク港に向かわせました。
日本の連合艦隊はそれを向かえ撃つべく待機しています。
バルチック艦隊が日本海に入る経路としては、
対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡
と三つありましたが、
連合艦隊は対馬海峡経由と判断して待ち構えていました。

哨戒の任についていた信濃丸は、
1905(明治38)年5月27日午前2時45分、
点灯航海している船を見つけました。
これはロシア艦隊の病院船でした。
密かに近づいて無灯火航行中の大艦隊、
バルチック艦隊を発見します。
これが午前4時45分。
直ちに「敵艦203地点ニ見ユ0445」と打電しました。
「203地点」は対馬海峡付近の海域を碁盤目状に区切った地点番号です。

その電信を受けたのが大瀬崎だったということです。

同日午前5時5分に、
連合艦隊の旗艦「三笠」は全艦隊に対して出撃を命じ、
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、
コレヲ撃破セントス。
本日ハ天気晴朗ナレドモ浪高シ」
と大本営宛に打電しました。

実際の海戦が始まったのは午後2時頃からです。
夜戦、さらに翌日の海戦を経て、
連合艦隊はパーフェクトといわれる勝利を収めました。


三六式無線電信機の性能について検索で調べてみました。
実験的には長崎-台湾間(1200km)の通信に成功したそうですが、
一方で、交信能力は370kmという記述もあります。
「敵艦見ユ」を発信した時
信濃丸と三笠の距離は185kmだったそうですから、
問題なく直接届く距離でした。
大瀬崎の役割は何だったのでしょうか?

三笠から大本営に「・・・天気晴朗ナレドモ・・・」と打電していますが、
これは直接届いたのでしょうか?
大本営は、日清戦争時は広島に置かれましたが、
日露戦争時は東京だったようです。
三笠から直接は届かないような気もしますが・・・
大瀬崎が中継したのでしょうか?

正直の所、
分からないことが多いです。


クロッカス

大瀬崎とも日本海海戦とも関係ありません。
先日撮ったクロッカスです。


クロッカス

日本では「日本海海戦」と呼んでいますが、
他国では一般に「対馬海戦」と呼ぶそうです。


◎  喜びも悲しみも幾歳月 

大瀬崎燈台

前回も写真を掲載した大瀬崎燈台です。
ガイドさんが「ここで映画『喜びも悲しみも幾歳月』のロケが行われました」
と説明してくれました。

案内板には何も記載がありませんので、
Wikipediaなどで調べました。

懐かしい映画ですが、
昭和32年だそうですからずいぶん古い昔になりました。
実話を基に木下恵介監督が脚本を書いたそうですが、
ストーリーは、
1932年、新婚夫婦(佐田啓二、高峰秀子)が観音埼燈台に赴任するところから始まり、
翌年、夫婦は石狩燈台へ転勤し、
冬の寒さに耐えながら長男と長女に恵まれる。
1937年、長崎県の孤島・女島燈台へ転勤。
1941年、佐渡島の弾埼燈台に転勤。
更にその後も転勤が続きますが、
大瀬崎燈台に勤務はしていないようです。

女島(メシマ)は、
福江島から南へ100km以上も離れた男女群島最南端の島です。
燈台も無人化されてしまい、
この群島の人口は現在ゼロです。

女島は見上げるような断崖が続き、
一年を通して海上は平穏ではなく近づきがたく上陸もしにくい島であり、
この灯台を建設するのは非常に骨が折れたそうです。
そんな燈台ですからロケは困難で、
大瀬崎燈台を代わりに使ったのではないかと思います。



◎  大瀬崎 

五島列島の旅も最終日となりました。
今日の観光は福江島の西南端です。


地図

地図の地名にアンダーラインを引きましたが、
大瀬崎、大瀬崎断崖に行きました。
参考に玉之浦港、父ケ岳にもアンダーラインを引きました。
名花『玉の浦』にかかわる地名です。


大瀬崎

大瀬崎灯台です。
明治12年(1879)に点灯されたそうです。
その後昭和46年(1971)に改築されて、
200万カンデラの明りが50km沖合いまで届き、
航海の重要な道標となっています。

「カンデラ」とは何か調べました。
カンデラ【candela】(ラテン語の「ろうそく」の意から) 光度の単位。
国際単位系(SI)の基本単位。
1カンデラは周波数 540×1012Hz の単色放射を放出する光源の
放射強度が683分の1ワット毎ステラジアンである方向の光度。
記号 cd (広辞苑より)

何のことやらさっぱり分りません。


大瀬崎

灯台の左側に伸びる大瀬崎海岸です。

北西季節風が強く、
荒波が打ち寄せる五島の海岸線には、
海食崖が多く発達しています。
特に、ここ大瀬崎を中心とする一帯では、
高さ100~150mの断崖が約15kmにわたって連なり、
西海国立公園を代表する景観を作り上げています。


展望台があり、
そこに「ハチクマのわたり」について書いた看板がありました。

ハチクマは、
日本では主に本州で繁殖するトビとほぼ同じ大きさのタカ科の猛禽類です。
秋になると越冬のため中国大陸へ向かう渡り鳥として
ハチクマの群れが五島福江島に飛来します。
特に玉の浦町大瀬崎(大瀬崎山頂)は、
ハチクマの群れが中国大陸へ向けて次々に飛び出す様子を
間近に観察できる絶好のポイントになっています。

毎年9月中旬から10月上旬にかけて、
1万羽を超えるハチクマが観察され、
1日で1500羽を越えることもあります。
この時期には、
ハチクマのほかに、
アカハラダカ、チゴハヤブサ、ツバメなど
多くの野鳥が渡って行く様子も観察できます。

日本国内で繁殖したハチクマのほとんどが五島列島に飛来し、
大瀬海岸を中心とした福江島の西海岸から中国大陸まで
直線約600kmを一気に渡って行くと考えられ、
その飛翔力に驚かされます。



大宝寺

順序としては大瀬崎は最後でした。
大宝寺という仏教寺院へ朝一番に寄りました。
入り口の石塔に「西高野山」と書いてあります。

旅程には「大宝寺(『玉の浦』2世種)と書いてあります。
私は勝手にこう解釈していました。
名花『玉之浦』の原木は何かの原因でなくなってしまった。
しかしこの大宝寺にはその血筋を引く木があって、
現在、島中に、あるいは日本中に、いや世界中に、
広がっている『玉の浦』はこの2世種の子なのではないか、と。

その木を今日は見せてもらえるのだから、
昨日鬼岳で日が暮れてしまって、
時間もなくて、
よく見れなかったことは、
さほど悔やんでいなかったのでした。


大宝寺

境内に入ると鐘楼の脇に
石灯籠と並んで、
さほど大きくない『玉の浦』の木がありました。
ガイドさんは見向きもせずに進んでいきます。
奥の庭にその2世種があるのだろうと、思いました。


大宝寺

しかし本堂へ導かれ、
靴を脱いで堂内の拝観、
5分ほどの住職の講話を聞いたら、
もうバスに乗って出発です。


大宝寺

何かおかしいと思いながら、
とりあえずさっき見かけた『玉の浦』を
大急ぎで2、3枚撮ってバスへ戻りました。


大瀬崎でガイドさんに『玉の浦』のことを聞いてみたら、
おおよそ次のような答えでした。

父ケ岳(461m)の中腹に自生しているのを
昭和22年に炭焼きが見つけた。
そして昭和48年長崎で開催された全国ツバキ展に切花が出展されて、
世間の注目を引いた。
しかしそこから原木に不幸が訪れた。
枝を折り取られ、
ついで幹も、
最後には根っこまで掘り取られてしまった。

挿し木された苗が広まり、
アメリカでもこれと交雑した品種が作られている。

ところで、
現在栽培されているものは挿し木で増やしたものだから
原木と同じだといえば同じだし、
これを2世種だといえば、
そうなるけれども「2世種」という言葉は使っていないし、
大宝寺に特別の木はない。
とのことでした。

『玉の浦』については、
九州大学で遺伝子の研究が行われている。
現在までに分かっているのは、
五島の藪椿の遺伝子と、
新潟の(小林幸子が歌う)雪椿の遺伝子とをもっていること。
どうして新潟の椿がここへ?

藤村の「椰子の実」のように海を流れて五島へやってきたのかも知れないが、
ハチクマが運んできたのではないだろうか?とガイドさんは考えている。
(猛禽類のハチクマが椿の実を食べればの話でしょうが・・・)

こんな話でした。
紹介し忘れていましたが、
このガイドさんは島の椿協会の会長さんだそうです。


井持浦教会

大宝寺の次は井持浦教会です。
レンガ造りの聖堂で、
明治30年(1897)創建だそうです。
この教会は火曜日が休みだそうで入れませんでした。
元来は昨日訪れる予定でした。


ジェットフォイル

島で昼食を取って、長崎へ向かいました。
海はベタ凪でした。
今度は予約してあったジェット・フォイル(高速船)の旅です。
畳部屋ではなく列車やバスのような椅子席で、
ベルト着用です。
フェリーのようにデッキに出て外の風に当ったり、
写真撮りをしたりはできません。
片道がフェリーでよかったのだとも思いました。


◎  福江島 

2月23日昼食後久賀島に渡り、
浜脇教会と牢屋の窄記念堂を見てから、
野生のヤブツバキの咲く山道を散策し、
五島列島で最大の島、
福江島へ戻りました。
そして半日の遅れを取り戻すべく
駆け足の観光が続きました。


福江島

まず向かったのが堂崎天主堂です。
道が狭いのでバスを降りて少し歩きます。
途中の風景です。
この建物はレストランのようでした。


福江島

堂崎教会です。
明治6年にキリシタン禁制が解かれ、
その4年後にフランス人宣教師が五島にやってきて、
明治12年に堂崎小聖堂を建立しました。
そして2代目の司祭が用地を拡張し、
明治37年に新聖堂建築に着手。
同40年に完成したゴシック様式の聖堂で、
イタリア製赤煉瓦が用いられているそうです。


福江島

ステンドグラスは4弁のツバキです。


福江島

次は五島氏の庭園拝観です。

福江島のお城は石田城というそうです。
嘉永6年(1849)幕府の命令で築城が始まり、
完成間近の安政5年(1858)
藩主五島盛成は家督を盛徳に譲って隠居。
城内に陰殿と庭園を作りました。


福江島

ここの池が心の字を象ったことから、
心字が池庭園とばれるそうです。

ぐるっと池を一回りしましたが、
どういう具合に「心の字」になっていたか分かりませんでした。


福江島

池の傍らに落ち椿が流れ落ちて、
浮かんでいました。

お堀と橋の写真を撮ったのが17:11。
城内の小道を辿って庭園の入り口に到着。
添乗員が入場券を買ってくれて、
園内に入り、
池を巡って出てきたのが17:25です。
(イソガシイ!!)


福江島

それからバスで鬼岳という小山の中腹にある椿園です。
面積が6haで、
島に自生するヤブツバキのほか、
園芸品種など約260種、
2000本の椿を植栽しているそうですが・・・
到着が17:50、
出発が18:05ですから、
われわれが可哀想です。


福江島

名は知りませんが、
ここで撮った椿です。

このあとで「玉の浦」に出会いましたが、
急げ!急げ!だった上に、
夕闇が迫っていました。
光が乏しくピントがよく合いません。
「玉の浦」は先日掲載済みですが、
ろくな写真が撮れなかったことの言い訳です。


福江島

椿園のあと、
もう一箇所行きました。
バスを降りて撮ったのが、
先ほどの鬼岳です。
島で4番目に高い山で標高315m。

この形から五島富士とも呼ばれるそうです。
そして冬には雪を頂くこともあるとのことです。


福江島

最後の観光は、
鎧瀬溶岩海岸です。
ガイドさんが、
明るい時に見れば、
ああだ、こうだ、
といいますが、
この通りの暗い海でした。

夕食を頂いて、
バスでホテルへ着いたのはちょうど21時。
長い一日でした。


◎  久賀島 

久賀島では二つの教会を見学しました。
(「ヒサカジマ」と読みます)


浜脇教会

まず訪ねたのが浜脇教会です。
名の通り浜辺にありましたから、
ボートが港に着く直前に海から見えました。

明治14年に建立されましたが、
潮風による傷みが激しいので、
昭和6年に鉄筋コンクリートで再建されたそうです。


浜脇教会

堂内です。
塗りなおしたようで、
きれいでした。


浜脇教会

ステンドグラスは花模様です。
赤いのは椿だそうですが、
5弁にしないで十字架を表して4弁にしてあります。


牢屋の窄

次は「牢屋の窄」という恐ろしい名の所です。
「窄(サク)」は「穴室の周囲の障壁が近迫して狭い」意。

ここに書かれている文を下に書き記します。


牢屋の窄殉教記念聖堂

明治元年(1868)長崎の浦上の地において
キリシタン迫害が始まると、
多くの信者がいた五島各地でも厳しい弾圧と迫害が始まった。

久賀島では、
6坪ほどの牢屋に信者200名を8ヶ月の間押し込み
連日悲惨な拷問が行われたという。
その結果、
死者39名、出牢後死んだ者3名という悲惨な弾圧であった。

その状況は外国使節団の知るところとなり、
明治新政府の外交問題に発展し、
ついに太政官布告によって明治6年キリシタン禁制の高札が下ろされ、
信者たちは信仰の自由を勝ち取った。

この歴史的場所である牢屋の窄一帯を殉教聖地として
永久に保存しようと地域の信者たちが浄財を出し合い、
地主より買い受け、
殉教の牢屋の跡に信仰の碑(殉教記念碑)を建立し、
昭和59年には新聖堂も建立された。



記念聖堂

牢屋の窄殉教記念聖堂です。
広角レンズによって歪んで見えますが、
本物はきちんと立っています。


記念聖堂

ここのステンドグラスは花模様でなく、
抽象模様でした。


囚獄の跡

教会の脇に教徒迫害の経緯を書いた碑があります。
上の記述よりも詳しいので
読めない箇所もありましたが、
できるだけ判読して書きました。
(中央上部が黒くて解読できない文字がありますので、
それは「*」で記しました)


久賀島カトリック信徒囚獄の跡

江戸幕府に続く明治政府のキリシタン弾圧により
明治元年9月久賀島の信徒が捕らえられ、
激しい火責め、水責め、算木責めの拷問を受け、
同年10月22日には内上平部落の信徒の家をこの地に移して牢とし、
老若男女200余名が収容された。

この牢屋は奥行き3間、間口2間、6坪の家牢で、
中央が仕切られて男女別に監禁された。

狭隘な牢内では身動きすることも困難で人の体にせりあげられて
足さえ地に着かない者もあって、
さながら人間の密集地獄であった。

3日目には足が腫れ上がり、
食物は芋の小切れを朝に1個ずつ、
飢えと苦痛のため死者が続出した。

死体は密集地獄の下に踏み潰されて腐敗するが、
5日間も放置され、
蛆がわいて人体に這い上がり、
その上、
その場に放尿、排便せねばならぬので、
その不潔さと臭気は言語に絶する惨状。

12歳のドミニカ・**(名前)は蛆に下腹を食い破られて死亡した。
10歳のマリア・**(名前)は熱病におかされて頭髪は落ち、
「私はバライソ(天国)に行きます。
**********さようなら」
の一語を残して息を引き取った。
その妹マリア・**(名前)は7歳の幼女であったが、
「イエス様の五つの御傷に対して祈らねばなりません」
と言い残して息絶えた。

彼ら信徒は、
孜々として生業に励み、
忠実に法に従う良民であったが、
信仰に忠実に、
神の掟を重んじたというだけで、
この責め苦を受けたのである。

明治政府は絶対主義、神道国家確立をはかり、
祭政一致を唱え、
その政策の犠牲となったのが、
カトリック教徒たちである。

久賀島のカトリック教徒は、
あどけない幼児から60余歳の老人に至るまで、
超人的な精励を以って、
この比類のない苦痛に耐え忍び、
信仰の自由と良心の尊厳とを身を以って主張し、
信仰に生きる久賀島カトリック信者の魂の偉大さを発揮したのである。



牢死者の碑

中央の少し右よりにある黒い厚い石に上の碑文が書いてあります。
中央の高い碑が「信仰の碑」で、
沢山並んでいるのが「牢死者の碑」です。


ヤブツバキ

恐ろしい出来事の記念聖堂、
記念碑のそばには、
赤い藪椿が春の日を受けて咲いていました。


ヤブツバキ

明治政府は廃仏毀釈などで仏教をも迫害しましたが、
カトリックに対する迫害は読むに耐えないものでした。
その「読むに耐えない」ものを皆様に読ませたことをお詫びします。


◎  船旅 

前回書いたように長崎に泊まることになりました。
旅行社が急遽探してくれたのは、
実は2004年8月15日に泊まったホテルでした。
その夜は「精霊流し」を見にいきました。
翌日は「山鹿の灯篭祭り」でした。

そのホテルでの夕食時のことを思い出してブログに書いたことがあります。
ご用とお急ぎのない方はご覧になって下さい。
「ご馳走様」
という題です。

今回は夫婦・グループ毎のテーブルでしたから、
よそのご夫婦のお話を伺う機会はありませんでした。


その夜と次の早朝はテレビの天気予報ばかり見ていました。
「雨」「強風警報」「波浪警報」など心配の種ばかり・・・
無事に渡れても、
帰れなくなったらどうしよう~
却って楽しいかな?
とか想うこと多い夜でした。


地図

地図で確認しておきます。
左側の縦に連なる島々が五島列島です。
南から福江島、久賀島、奈留島、若松島、中通島の五つの大きな島を中心に、
約140の島からなります。
多くの教会が存在し、
キリシタンの香りが色濃く残る島々です。

地図の右方の赤丸が長崎港で、
左方の赤丸が目的の福江港です。
この間の距離は約100kmです。


ジェット・フォイル

まだ小雨の降る波止場に着いてみると、
どうやら船は出るようです。
満席で乗れなかった高速船が出ていきました。
これに乗れれば、
昨夜島に泊まったのと大差ないのでしょうが、
仕方ありません。
高速船の所要時間は1時間半。
フェリーでは3時間半です。
その上出発時間も後になっています。


フェリ-

これが出航を待つフェリーです。


灯台

今度は無事に出航しました。
長崎湾を抜けて外洋に出るところです。
だんだんと雨もあがってきました。


海と空

福江港に近づいてくると
日も射し始めました。
天気予報は良い方にはずれているようです。

船内で変更になった旅程が発表になりました。
半日短くなってしまいましたが、
順序を変更したり、
観光時間をつめたり、
いろいろと工夫をして、
観光箇所はほとんど減らさないとのことでした。


地図

一番大きな島、
福江島がメインですが、
その北隣の久賀島(ヒサカジマ)にも行くことになりました。


ボート

福江港に着くとすぐに昼食を取り、
また港に戻って、
この黄色の船に乗って久賀島へ向かいました。

久賀島の田ノ浦港は、
昔唐へ渡る船が待機した港だそうで、
空海も寄っているそうです。

島の中をマイクロバスで案内してくれましたが、
そのガイドさんは、
黄色い船の船長さんでした。

港に島を説明する看板がありました。
久賀島は
椿油の生産量が戦後日本一を記録したこともある「椿の島」です。
東海岸の長浜地区に県の天然記念物に指定されている椿原生林(約1ha)と、
西海岸の亀河原地区の自然林(約12ha)があります。
島内には突然変異による久賀白、
久賀一号などの白色系椿の自然木も発見されており、
更に樹齢200~300年前後の巨木も多数生育して歴史の古さを誇ります。



久賀白

残念ながら巨木も白系の椿も見せてもらえませんでした。
この白花は長崎港の待合室に鉢植えされていたものです。
多分「久賀白」だろうと思っています。


◎  雨のオランダ坂 

昨日はツバキ「玉の浦」をお見せしましたが、
今日はそれが咲いている島、
五島列島にたどり着くまでのお話です。

2月22日(日)から24日まで3日間の旅でした。
ツアーの名称は「椿彩る早春の五島列島、名花 玉の浦の面影」です。
朝10時羽田空港に集合、
参加者は20名でした。

羽田発10:45
長崎着12:45
ほとんどダイヤ通りの運行でした。
午前の羽田は晴れていましたが、
長崎は雨でした。
滅多に来ないのですから、
「長崎は今日も雨だった」
ということもありません。
予報通りの天候でした。

空港からバスに乗り込み
約1時間の予定で波止場に向かいます。
そこから高速船「ジェット・フォイル」で五島列島に渡り、
午後の4時半にはホテル到着。
夕食は「椿林に囲まれた『椿茶屋』で郷土料理」という予定です。

しばらく乗っていると添乗員からアナウンスがありました。
「波が荒いためジェット・フォイルが欠航になりました。
次のフェリーで渡ることにします。
それで・・・・・」

急遽バスは長崎市内に向かい、
長崎歴史文化博物館に立ち寄って
時間をつぶすことになりました。

そこを出ると今度は、
カステラの老舗の2階でコーヒーブレイクです。
大きなカステラが2切れとコーヒーが
人数分並べてありました。
フェリーは速度が遅く、
島に着くのが8時半ころになるので、
おなかが空くだろうから食べておいて下さい、
とのことでした。

降り続く雨の中をバスは波止場へ向かいました。
バスのガイドさんは「短い時間でしたが・・・」と
別れの挨拶です。

挨拶が終わり、
バスが連絡船の乗り場前に停まったとき、
携帯でずーっと話をしていた添乗員がマイクを取りました。
「フェリーも欠航になってしまいました。
今、東京の事務所が長崎市内のホテルを探しています。
ホテルが決まるまで少しお待ち下さい。
明朝のジェット・フォイルは満席だといっているので、
これから交渉にいってきます・・・」

バスに乗ったまましばらく待ちました。
やがて添乗員が戻り、
予約の取れたホテルへ向かいました。

遅い夕食の予定だったのが、
6時半からになりました。
それでも時間があります。
ホテルのすぐそばにオランダ坂があるので、
傘をさして行ってみました。


オランダ坂

♪こぬか雨ふる 港の町の
青いガス灯の オランダ坂で
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


こぬか雨よりも強い雨が降っていました。


オランダ坂

♪雨のふる日の 日ぐれの頃に
思い出します オランダ坂を
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


坂を登っていくと風が強くなってきました。
風は写真に写りませんが、
折りたたみの傘が裏返ったり、
飛ばされそうになったり、
かなりの強風でした。
この風だからフェリーも欠航したのだ・・・

坂の前方がV字型に分かれています。


オランダ坂

左側の坂の上り口に石塔が立っていました。
ここから上が「オランダ坂」なのでしょうか?
かつて異人屋敷が並んでいた・・・


オランダ坂

風が強いし、
レンズも濡れるし、
戻ることにしました。
足元の石畳です。

雨と風のオランダ坂でした。



夕食時に明日の予定が発表されました。
結局ジェット・フォイルが予約できないので、
一番のフェリーで渡ることになりました。
朝食が6:40からで、
ホテル出発は7:10ということになりました。
それでも島に着くのは11:30になりますから、
半日分予定が狂うことになりました。


◎  玉の浦 

あっという間に日が経ってしまいました。
新しい年もふた月が過ぎて、
3月となりました。
まさに「光陰矢の如し」です。
大変ご無沙汰してしまいましたが再開致しますので、
よろしくお願い致します。

トップの写真は、
小樽の雪の夜景から銀座の夜景に変えました。


玉の浦

ヤブツバキの変種「玉の浦」です。

五島列島観光協会のHPから引用しますと、
五島列島は、
日本有数の椿の島として有名です。
ヤブ椿の自生が多く、
古くから椿油が作られていました。
伊豆大島にその座を譲りましたが、
昭和30年ごろまでは、
全国の椿油生産量の1/3を占め、
日本一の生産量を誇っていました。
また、ヤブ椿の突然変異種である、
濃紅地に白覆輪のコントラストが美しい
名花「玉之浦」が発見されたことで知られています。



玉の浦

濃紅地に白覆輪の中輪で、
世にも珍しいヤブ椿の突然変異種。
国際ツバキ名鑑の巻頭を飾る世界的な名花として広く知られている。
原木は福江島玉之浦町父岳(461m)の中腹に自生したもので、
昭和22年炭焼業者によって発見され、
昭和48年(1973)長崎で開催された全国ツバキ展に出展されて、
幻の椿として一躍愛好家の注目を浴びた。
しかし、
これが世に広まると現地を訪れる者が相次ぎ、
心ない人々によって濫獲され、
原木はついに枯死するに至り、
天然記念物ともいうべき貴重な遺産は失われてしまったが、
その子孫は世界に広がっている。

とのことであります。


玉の浦

2月23、24日に五島列島へ行ってきました。
天候、その他、もろもろの事情により、
ここに掲載した写真程度しか撮れませんでした。
その「事情」については次回に報告することにします。


玉の浦

再開したら沖縄紀行の残りを掲載するつもりでしたが、
休みの日数が長過ぎましたので、
それはまた機会があったら、
ということにします。



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