Photo & Essay

◎  奈良・平城宮跡(東院庭園) 

平城宮跡の最終回です。

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平城宮跡の東側にある東院の庭園跡。
発掘調査に基づいて、
建物、池、橋、植物などを復元したものだそうです。

入り口に至るスペースに
花かごが多数並べてありました。


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園内に入ると東に向かって小径があります。


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小径の左側に池、建物、橋が復元されています。


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小径の正面に見えていた建物です。
園内は反時計方向に一周できるようになっています。


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園内を一周して、
外に出て来て、
もう一度花かごを撮りました。


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平城京の地図です。
平城宮の右隣に法華寺(緑色---東院庭園と隣り合わせ)があり、
その下に長屋王(ながやのおおきみ)邸(濃い黄色)があります。

平城宮跡の見学を終えて外に出ると間もなく、
大きな建物がありました。
イトーヨーカ堂(かつてはそごうデパート)で、
これが長屋王邸跡です。

東大寺が全国の総国分寺であるのに対して、
総国分尼寺である法華寺は、
藤原不人比等(ふひと)の屋敷跡を光明皇后が寺にしたものです。

政治的には不比等(鎌足の子)がナンバーワン、
長屋王(天武天皇の孫)がナンバーツーの位置にありましたが、
不比等の死後、
藤原氏の4人の息子たちがまだ若かったので、
長屋王が政治の実権を握りました。

やがて讒言によって、
長屋王は自決させられ、
王の一族は皆殺しにされました。
藤原氏が実権を取り戻し、
聖武天皇の夫人だった光明子(不比等の娘)を
皇后の位につけました。(光明皇后)
藤原氏の栄華の始まりです。

藤原兄弟が相次いで天然痘で死んだのを、
人々は「長屋王のたたり」といったそうです。

そして、長い歳月が流れ・・・
この地にそごうデパートが建つことになったとき、
発掘調査(1986~1989)が行われ、
貴族の邸宅址と多数の木簡などの遺物が出土して、
長屋王邸址と判明しました。
地元や研究者の反対にもかかわらず建設は強行され、
遺構の多くが破壊されたそうです。

そごうデパートが不振のため閉店することになったとき、
街の人たちは「長屋王のたたり」だとささやき合ったそうです。
イトーヨーカ堂に「たたり」はないのでしょうか?
店には入って見ませんでした。


◎  奈良・平城宮跡(咲く花の) 

平城宮跡の続きです。

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大極殿の外周の欄干に宝珠が取り付けてありました。
青空を背景に赤い珠です。


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林の緑を背景にした黒い珠です。


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大極殿を後にして、
周囲にある施設や遺跡を見たりしました。


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広い草原ではススキがきれいでした。


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ススキだけでなく、
セイタカアワダチソウが負けずに咲き誇っています。
「八重桜」を「泡立草」に置き換えて、

あおによし 奈良の都の泡立草 けふ九重に 匂ひぬるかな

なんて、万葉集の現代版ができてしまいました。


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冗談はさておいて、
もう1首平城京が栄えた頃の万葉歌です。

あおによし 奈良の京(みやこ)は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

「英語で読む万葉集」(岩波新書)リービ英雄著
からリービさんの文を引用します。

ヨーロッパなどは暗黒の時代、
中国の長安に次いで、
スケールだけでなく「文明度」という意味でも
世界第二の都市だったといわれている奈良。
しかも、
大陸にひらかれていた島国の都市では、
大陸にない感性が大陸にないことばで表わされ、
大陸出身の歌人たちも交じってその表現に参加していた。
そう思うと、
「奈良」はさらに複雑な都市生活を想像させてくれた。

実際に現在まで残されてきた、
日本人の誰もが読める、
翻訳すれば世界の誰にも伝わることばの中で、
奈良の住人たちが、
「見て、私たちの京(みやこ)は今栄えている、
今盛りに達しているのである」
と自然界の比喩をもって訴えている。
自文化の誇示。
その都市が密な交流をもった他国のことを
どれほど意識していたのかは分からないが、
世界に向かって主張しているようにも響く。
しかし、近代のナショナリズムにありがちな、
陰鬱で排他的な自己主張とはまったく違う。
その主張の声はじつにおおらかである。

「咲く花の にほふがことく 今盛りなり」。
都市の「盛り」が自然界の比喩によって表現を得て、
明るい
そして不思議なほど、
それが普遍性を帯びたことばとして伝わる。


ちなみに「世界の誰にも伝わる」という英訳は、

The capital at Nara,
beautiful in green earth,
flourishes now
like the luster
of the flowers in bloom.


先日NHKが奈良から実況中継した番組で、
奈良出身の画家、絹谷 幸二氏は、
「現在奈良の街で見かけるのと同じくらい、
平城京にも外国人の姿があった」
という意味のことをいっておられました。
国際都市だったのですね。


◎  奈良・平城宮跡(大極殿) 

平城宮跡の続きです。

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大極殿に到着です。
これは朱雀門より大きな建物です。
費用も沢山掛かったことでしょう。
(全部国の予算だそうです)


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内部です。
中央に見えるのは高御倉(たかみくら)です。


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高御倉は天皇が即位や儀式の時に着座しましたが、
この展示物は現在京都御所にあるものを真似たそうで、
奈良時代の形は分からないようです。


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内部、周囲の小壁に
上村淳之さんが描いた四神(しじん)と十二支の絵があります。
これは青龍(せいりゅう)です。


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朱雀(すざく)です。


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白虎(びゃっこ)です。


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玄武(げんぶ)です。


四神は天の四方を司る霊獣で、四季をも表します。
青龍→東、春。
朱雀→南、夏。
白虎→西、秋。
玄武→北、冬。
(玄=黒)

朱雀門は南の門でした。


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平城宮跡とは無関係ですが、
上村淳之画伯の祖母に当たる上村松園の展覧会を先日見てきました。
17歳から70歳過ぎ迄の作品、すべて美人画です。

25歳頃の作品で「浴後美人」という絵がありました。
西洋画でいえばヌードです。
湯上がりの美女が片膝を立ててしゃがんだ姿で、
立てた膝に小さなタオル(手拭い?)が置いてあるだけ、
両の乳房もお尻も太ももも丸見えです。
美しいです・・・が、ふと思いました・・・「色気がない」
(美術史家は「色気」なんて云わずに「官能的」と云いますが~)

西洋画でこんな姿を描いたらとても官能的になるでしょう。
松園ほどの腕前なら、どうにでも描けると思います。
そうならないように描いたのでしょう。
そう思って見ると、
他の着物を着た姿からも同様の印象を受けました。

昭和18、19年(68~69歳)の作品がありました。
松園は京都に住んでいましたから、
空襲を受けることは、
結果的にはなかったわけですが、
戦争が激しくなり、
国内の大都市が空襲を受けるようになってきた時代に、
美人画を描いていた人が居たんだと、
感慨深いものがありました。
(松園を非難するつもりは毛頭ありません)

70点あまりの作品。
すべてが飛び切りの美人画。
贅沢をいうようですが、
飽きてしまいました。
美人もいいけれど、
やはり美人だけでは・・・
いろいろと混在している方が・・・



上を書いてしまってからWikipediaを見たら、
生涯、
「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」、
「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」(松園のことば)
を念願として女性を描き続けた。

と書いてありました。
また、
昭和20年奈良に疎開した。
とも書いてありました。


◎  奈良・平城宮跡(朱雀門) 

「平城遷都1300年祭」が11/7で終わるとのことなので、
見に行ってきました。

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朱雀門です。
復興は平成10年。
図面が残っていたわけでありませんから、
古い寺院の建築を参考にして設計したそうです。

実際にせんとくんがここにいたのではありません。
画面合成で立たせました。

2010年は、
わが国の本格的な首都「平城京」が誕生してから
1300年になります。

平城京の入口である羅城門から
75m幅の朱雀大路が北に向かってのびており、
その4km先に平城宮の正門である朱雀門が建っていました。

朱雀門の前では外国使節の送迎を行ったり、
時には大勢の人達が集まって歌垣なども行われました。
正月には天皇がこの門まで出向き、
新年のお祝いをすることもありました。
朱雀門の左右には高さ6mの築地がめぐり、
130haの広さの宮城をとりかこんでいました。

朱雀門は衛士によって守られ、
常時開いていたわけではありませんが、
宮の正門としての権威とともに
その雄姿を内外に誇示していたと思われます。

(「平城遷都1300年祭」HPより抜粋)


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この額の大きさは畳2枚分。
文字は上を大きく、
下を小さく書いてあるので、
ちょうどよい具合に見えるそうです。

額の費用は1400万円。
門全体で130億円。
(と、ボランテアのおじさんが説明してくれたと思いますが、
記憶力が減退しているので確かでありません)


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朱雀門の近くに「平城京歴史館」があって、
映像で解説してくれます。
館の外には遣唐使船が復元展示されています。


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次のように推定してこの船を造ったそうです。
奈良時代の資料に、
600人を4隻の船で派遣したとあるので、
1隻当り150人が船上で生活し、
そのための水や食料を積める大きさにした。

「吉備大臣入唐絵詞」という絵巻物に、
遣唐使船を描いた絵があるので、
それに似せた形にしてあるそうですが、
その絵は最後の派遣から400年も後に描かれているので、
実際の形を表しているという保証はないそうです。


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朱雀門のすぐ北側を近鉄電車が走っています。
その踏切を渡って大極殿に向かいます。
3km弱の道のりです。


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遠くに見えるのが大極殿です。
都があったころは、
この草原に建物が立ち並び(官庁街)、
1万人近くの役人が働いていたそうです。

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大極殿に近づくと、
こんな服装の女性がいました。
1300年前にタイムスリップする貸衣装です。
(パラソルは現代のもの)


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参考までに年表を記載します。

630 第1回遣唐使派遣。(894に廃止)
710 藤原京から平城京に遷都。
712 「古事記」完成。
717 第9回遣唐使(阿倍仲麻呂、吉備真備など)派遣。
720 「日本書紀」完成。
752 東大寺大仏開眼。
760~770 「万葉集」成立。
784 長岡京に遷都。
794 平安京に遷都。

つまり平城京に都が置かれたのは710~784でした。
(一時的に他の地に移ったこともありましたが)


◎  尾瀬(3) 

バスを出発してから戻る迄、
与えられた時間は、
全部で4時間(240分)です。
標準では下りが60分、
昇りが90分だそうですから、
残りの90分で、
尾瀬ケ原を歩くのと昼食とになります。

下りに80分掛かってしまいましたから、
この分では昇りに120分みておかなければ、
ということになりました。
すると残りの40分で、
昼食と散策をしなければなりません。


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尾瀬ケ原の入り口をちょっとだけ
覗いてくることになりました。


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花はほとんど見えませんでしたが、
リンドウがひとつだけ。


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黄金の草紅葉というところでしょうか~


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咲き残りのトリカブト。


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時計とにらめっこしながら歩き、
後ろ髪を引かれながら、
戻りました。

そして、
帰り道の昇りですが・・・
ゆっくり歩いたのに、
80分で登ってしまいました。
バスのそばで暇を持て余して・・・
こんなことなら
もっと尾瀬ケ原を楽しめばよかった!


◎   尾瀬(2) 

鳩待峠から尾瀬が原への下り道の続きです。

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鳩待峠まで登れるのは小型バスとタクシーだけです。
大型バスや自家用車は下の駐車場に置いてタクシーで登らなけれたなりません。
われわれのバスは20人乗りの小型でした。

添乗員は女性で、
すらりとしたきれいな人です。
鳩待峠に着く直前に注意事項などの説明がありました。
記憶に残った言葉があります。
「もし、具合の悪くなった人がいたら、
一人くらいなら背負って登れます」

この人、そんなに体力あるのかなあ~
私なら軽いから背負ってもらえるかなあ~(爆笑)

下りながら、彼女に聞きました。
「こんなスローペースで、1時間で下れますかねぇ」
(下りは1時間が標準だそうです)
「大丈夫でしょう。1時間か、もうちょっとでしょうね」


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立ち止まっては、
近くや遠くの紅葉に見とれ、
ゆっくりと下っていきました。
後から下ってくる人たちには
「お先にどうぞ」です。

添乗員さんは、
これじゃあ、
他のお客さんの面倒が見れないと思ったらしく、
足を速めて下って行ってしまいました。


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流れがあって橋を渡りました。
紅葉はこれから、という感じです。


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橋を渡り切ると、
葉をすっかり落としたマユミが実っていました。


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ようやく尾瀬ケ原の入り口、
山の鼻に到着です。
1時間と20分掛かりました。


◎  尾瀬(1) 

先週の金曜日(10/8)に尾瀬へ行ってきました。

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朝出発の日帰りコースです。
出かける頃は曇り空でしたが、
だんだん晴れてきて、
鳩待峠に着いた時は
白い雲があるものの青空が広がっていました。
上はこの日の最高地点、鳩待峠(標高1591m)の写真です。


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尾瀬ケ原に向かって坂を下りました。
この木はきれいに見えますが、
葉っぱに黒い斑点があって、
大写しできないカエデがほとんどでした。


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高齢者ばかりのグループです。
ゆっくりと、
そして休んでは
紅葉を眺めながら歩きました。


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最初は多少急な下りでしたが、
だんだんと緩い傾斜になってきました。
振り返って撮った写真です。


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まだ下りの途中ですが、
今回はここまで。
次回に続きます。


◎  巾着田 

曼珠沙華、コスモスに続いて、
巾着田の第3弾です。
西武秩父線の高麗駅を降りて巾着田まで歩いて行くと、
途中にたくさんの店が出ています。
近所の農家が出している店が多く、
生け花などに使う材料が見られます。


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飾り茄子。


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フォックス・フェイス。


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ウバユリ。
(と、書いてあったのですが・・・)



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ムラサキシキブ。
これは売り物ではなく、
生えていました。


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シロシキブ。


◎  コスモス畑 

前回の曼珠沙華が咲いている巾着田には、
コスモス畑もあります。


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青空を背景にした曼珠沙華は取り損ねましたが、
コスモスはこんな写真を撮りました。
曼珠沙華は林の中に咲いていましたが、
コスモス畑の上は青空です。


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女の子が二人、
向き合っていました。


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コスモス畑を前景にして、
記念の集合写真を撮っているようでした。


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畑のそばに水車小屋があって、
その茅葺き屋根です。



10月になりました。
今日は国勢調査の日です。
早速記入して、
投函してきました。

「国勢」とは
国の勢い。国の人口•産業•資源などの総合的な状態。
をいうそうです。

実際に調べるのは人口だけ。
人の数が国の勢いだった時代の呼び方なのでしょう。
人口が減少期に入った日本ですが、
それにつれて国の勢いも衰えるなんて、
そんなことのないように、
と願っています。



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