眼差し-----アジアゾウ
眼差し-----シロテテナガザル
眼差し-----プロローグ
仕事納めも済んで
年末年始の休暇ムードになりましたので
暫くは毎日1枚だけのアップとします。
上野動物園で
動物を撮っている内に
彼らの眼差しに惹かれましたので
そんな写真をアップしていきます。
最初は人間です。
顔も目も見えませんが
彼女の眼差しを感じて頂ければ
と思います。
狙っているのは小鳥の姿です。
寛永寺
下町風俗資料館から
寛永寺に到着
秋の陽射しが濃い影を作っていた
根本中堂
灯籠
正面掲額『瑠璃殿』
屋根の獅子
灯籠の龍
参拝の後は
鴬谷駅近くで休憩
お昼に飲み損ねた生ビールを飲んで
雑談会をやって
散会しました
これで谷中散策をは終わります
下町風俗資料館(2)
下町風俗資料館(1)
谷中6丁目の隣は上野桜木2丁目で
ここにある下町風俗資料館の付設展示場を訪れた
「下町風俗資料館」は
明治・大正ころまでの下町には江戸の名残がありました。
しかし大正12年(1923)の関東大震災、
昭和20年(1945)の戦災によって、
ほとんどその面影をなくし、
さらに目覚しい復興を遂げた戦後、
特に昭和30年代後半には
東京オリンピックを契機とする再開発が積極的に進められ、
街はすっかり様変わりしました。
そんな古い下町の様子を次の世代に伝えるために
1980年に開設された
この日見学できたのは
付属展示場(「旧吉田酒店」)だけだった
「旧吉田酒店」は
谷中6丁目に江戸時代から酒屋を営んでいた「吉田屋」の建物(明治43年建築)を
移築したもので
江戸時中期から明治時代の商家建築の特徴を示すとのことである
玄関を入った正面
大きな酒瓶がある
一斗瓶と書いてある
一斗は十升
つまり18リットルである
灘の酒の看板
酒桶
徳利
谷中6丁目
谷中5丁目散策
散策は続く
緑を愛する人が多い
ヨーロッパの人たちが
窓辺に赤い花を飾るのとは
雰囲気が異なるけれども・・・
路地
右側手前の下の方が次の写真
展示の意味はよく分からないが
古い扇風機に惹かれて撮った
左側の張り紙を
今になって読んでみた
始めの方は紙がまくれて見えないし
後の方は長いから抜き書きで紹介する
夢の・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
希望をみつけて生きていれば
笑顔はきっと戻ってくる
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
又明日 夢をみる
星の向うに未来がある
未来の向うに愛がある
愛の中には心がある
やさしい心がそばにある
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
又明日 夢をみる
庇の上
この下は?
どんな家だったか記憶にない〜
5丁目も終りが近い
谷中5丁目散策
朝倉彫塑館と観音寺
ちょっと立寄った場所がふたつある
朝倉彫塑館
彫刻家・朝倉文夫(1883〜1964)の
アトリエ兼住居を改装した美術館
上の写真は
その美術館の入り口左側にあった
待ち合い室みたいな建物
入り口右側にあった彫刻
題は「雲」
美術館玄関脇の彫刻
入ったのはここまでで
館内には入らずに
谷中散策を続行
観音寺
(赤穂浪士ゆかりの寺)
四十七士に名をつらねる近松勘六と奥田貞衛門は
当寺で修行していた文良の兄と弟であった。
文良は後の当寺第六世朝山大和尚である。
寺伝によれば、
文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、
寺内でしばしば彼らの会合が開かれたという。
本堂に向かって右側にある宝篋印塔は
四十七士慰霊塔として
古くから伝えられている。
(説明板から抜粋)
観音寺の築地塀
観音寺境内の南面を画する延長37.6mのいわゆる練り塀で
江戸時代に築造された土塀です。
土と瓦を交互に積み重ねて作った土塀に
屋根瓦をふいた珍しいものです。
(「TAITO おでかけナビ」から抜粋)
谷中5丁目
お昼を食べて
再び「だんだん」を登った
坂の上には緑があった
ここを過ぎて右に曲がった
地図を見ると「諏訪台通り」というようである
ビューティサロンは
この奥にあるのだろうか?
横道があると撮って・・・
緑で覆われた家
玄関の庇の上に白い文字で
「OSTERIA IL ROSSO DEL TRAMONTE」
とイタリア語で書いてある
『夕焼け酒場』
と訳したが・・・
白い張り紙に
「9月29日、30日は連休させていただきます」
と書いてある
(行ったのは9月30日)
「夕やけだんだん」の上から
「夕やけだんだん」を登った
坂の上から
谷中銀座を見下ろした
夕方ならば
向うに夕焼けが見えるのだろうが
真昼時だから
青空が見えていた
この「だんだん」を
別名「夕やけにゃんにゃん」ともいうと聞いたが
猫の子一匹見えなかった!
坂の上で昼食場所を探した
ここはちょっと高そう!
暗い路地にラーメン屋などが並んでいるが
撮影隊一行6人の意に沿う店がないので
また坂を降りることになった
だんだんを降りるとすぐ
トルコ料理店があった
一見土産物屋風だ
ここは全員拒否
写真だけ撮って通り過ぎた
結局
その先で
スパゲッティを食べることになったが
席について生ビールを注文したら
「ビールは置いていません
紅茶の店です」
といわれ
がっかりもしたが
これからまだ撮りながら歩くのだから
紅茶もいいだろうと
衆議一決
夕やけだんだん
夕やけだんだんが近づいて来た
「夕やけだんだん」は
日暮里駅方面から谷中銀座に下る階段。
階段上から谷中銀座を見下ろす風景は谷中関連の雑誌や番組にしばしば登場する有名なもので、
夕焼けの絶景スポットにもなっている。
階段の下には「谷中ぎんざ」と書かれたゲートがある。
また、
階段には野良猫・飼い猫を問わず、
沢山の猫が集まっているので、
「夕やけにゃんにゃん」と呼ばれることもある。
(Wikipediaより抜粋)
上の説明とは
反対の方向から来たから
坂を見上げている
(坂の上から見下ろした眺めは明日)
ちょっと脇見
でも見ただけで
通り過ぎた
さらに近づく
また脇見!
いよいよ登る
実はこの頃
お昼を食べる所を探していた
「だんだん」を登ったが
結局降りてきて
この辺で食べることになった
谷中銀座へ
岡倉天心旧宅趾
次に訪れたのは
岡倉天心記念公園
石碑
岡倉天心先生旧宅趾
日本美術院発祥之地
と書いてある
岡倉天心(1863〜1913)は横浜に生まれ
1889(明治22)年:東京美術学校を設立して、初代校長に就任
1898(明治31)年:横山大観らと美術の大学院をめざした日本美術院を設立
1905(明治38)年:ボストン美術館東洋部顧問に就任して渡米
六角堂
六角堂屋根
訪れたのは9月末だから
モミジの葉はまだ緑だった
六角堂の側面
谷中風景
全生庵
谷中に寺は多いが
そのひとつに立寄った
全生庵は
明治維新で国事に殉じた人たちを弔うために
山岡鉄舟が
明治16年に建立した寺
鉄舟との縁で
三遊亭円朝の墓所がある
全生庵正面
三遊亭円朝翁碑
金色の観音像
石碑背面
刻字面以外の凸凹が面白くて撮影
谷中霊園
五重塔跡の他には
徳川慶喜公の墓所を見学した
徳川慶喜公墓所
「TAITOおでかけナビ 」によれば
江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜の墓は谷中墓地と称される区域の寛永寺墓地にあります。
円墳状の墓で、慶喜とその妻の墓が並んでいます。
慶喜は華族の最高位である「公爵」を与えてくれた明治天皇に感謝の意を表すため
自分の葬儀を仏式でなく神式で行うよう遺言を残したため、
一般皇族と同じような円墳が建てられました。
霊園らしい風景の中に猫がいた
水引草
ひょろひょろして撮りにくい花だが
これだけまとまっていると撮りやすい
ホウズキ
9月の末だったから
もう枯れている
五重塔
昨日の天王寺を出ると
南に向かって
さくら通りがある
通りの両側は都立谷中霊園になっているが
そこに柵で囲った狭い空き地がある
五重塔跡である
五重塔跡
礎石が残るのみであるが
Wikipediaで調べると
元は天王寺のものであったが
明治41年(1908)に当時の東京市に寄贈され
谷中霊園のシンボルになっていた
それが昭和32年(1957)7月6日早朝に焼失した
火事の原因は心中による放火であった
在りし日の五重塔
1644年:五重塔を建立
1772年:明和の大火により焼失
1791年:五重塔再建
1908年:東京市に寄贈
1957年:心中事件により焼失
史実の他に
この五重塔は幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとしても有名
幸田露伴(1867年〜1947年)が
「五重塔」を書いたのは1891〜1892年であるから
再建からちょうど100年経っていたことになる
谷中散策・・・天王寺
谷中界隈を散歩したのは
9月30日
まだ暑い頃だったから
季節感は違ってしまったが・・・
日暮里駅から歩き始めた
透かし彫りを撮ろうと思って
待っていたが
このお嬢さん
ケータイを操作していて動かない
仕方ないから一緒に写ってもらった
天王寺
駅からすぐ近くにある天台宗の寺
この寺にはかつて五重塔があったとのこと
その話は明日に
釈迦如来座像
近寄って見上げると
2枚目の写真とイメージが変わった
本堂前の沙羅双樹の実
本堂内
奈良からの帰途
奈良町でお昼を食べて
ぶらぶら歩いてホテル戻り
預けておいた荷物をとって
JR奈良駅に行った
五色のフェンスは奈良駅
途中で停車した宇治駅で
車中からの撮影
青とピンクの人形は
源氏物語宇治十帖に因むのだろう
京都タワー
京都駅に到着して
駅からの撮影
駅構内には長いエスカレータがあって
上へ上へと登ることができる
頂上近くでの撮影
踊り場での記念撮影
これで奈良の旅を終わります
ご覧頂き有り難うございました
塀のある通り
新薬師寺庫裏
本堂には薬師如来を中心にして
12神将が並び
全てが国宝
写真撮影禁止
スケッチ禁止
本堂の隣に
土塀を隔てて庫裏の建物があり
そこでビデオを上映しているというので
行ってみた
本堂の屋根と桜紅葉
土塀
塀の向うが庫裏
池に掛けた橋を渡った正面が香薬師堂で
右に庫裏がある
庫裏で見たビデオは
12神将の1体を
できた時の色彩に
パソコン上で復原した記録
復原した極彩色に驚かされるが
現在の色彩が剥落してしまった姿の方が
有り難く見える
織田遊楽斎の庭
庫裏の座敷から見るようになっている
庭の石灯籠
新薬師寺
入江泰吉記念奈良市写真美術館と
新薬師寺は背中あわせになっている
新薬師寺は
光明皇后が夫・聖武天皇の病気回復を願って
天平19年(747)に創建された
聖武天皇遺愛の品々を
光明皇后が東大寺に奉献したのが
正倉院の始まりである
鏡神社の鳥居
この神社は新薬師寺の鎮守として
勧請されたそうで
新薬師寺の門前ににある
新薬師寺本堂
創建当時の建物だとのこと
斜めからの本堂
本堂前の鉄製の器
前面に「薬師如来」と書いてある
現在は線香立てになっている
軒先見上げ
入江泰吉記念奈良市写真美術館
入江泰吉記念奈良市写真美術館に到着
ここは二度目の訪問で
一度目は
館名が奈良市写真美術館の頃だったと思う
名前が変わっても
写真家・入江泰吉の全作品を収蔵・保存して
随時テーマを替えて入江作品を公開していることに変わりはない
入江さんは
奈良大和路の風物を対象に日本の美と心を撮り続けた写真家
前景
向かって右側にある浅い池
館内
正面向うがカフェで
紋様のある壁を見ながら階段を下ると
展示室になっている
開催中の展覧会は
入江泰吉と杉岡華邨----写真と書で綴る万葉の世界----で
『万葉集』の歌のイメージを表現した両氏の作品が並べてあった
写真美術館の石垣
ここを見終わった後は
すぐ近くの
新薬師寺に向かった
稲刈りの済んだ狭い田んぼに
案山子が立っていた
三日目の奈良
奈良滞在3日目の朝を迎えたが
今回はなんとなく
”ゆっくり”の旅になった
あれもこれも見ようとか
あそこにもここにも行こうとか
欲張りは全くなしで・・・
ホテルの朝食は6:45からだが
朝一は混んでいるので
それを避けて
遅めに食べて
部屋でゆっくりしていたら
もう10時に近い
部屋を出てみると
どの部屋も空っぽで
ホテル中が掃除の真っ最中
チェックアウトして
外に出ると
雲はあるが晴れていた
この日の予定は
まず入江泰吉記念奈良市写真美術館
美術館の近くまでバスで行った
バス停の向い側に
立派なそば屋があるので
昼食はここにしようと心づもりした
実は
ここに戻ってみたら
張り紙があって
「しばらくの間休業します」
と書いてあるではないか
ガッカリ!
それは後のことで
バスを降りて
地図を見ながら歩いた
古そうな家がある
看板を見ると
「皮フ科、泌尿器科」のお医者さんだ
こちらは
ずばり古屋だが
人が住んでいるのか
いないのか
判然としない
見越の松
土塀だけ傷みかけているが
他は立派!
見越の紅葉
新しくて立派な家だ
紅葉
夕暮れの奈良(Una sera de Nara)
初冬の日暮れは早く
奈良の街に夜が訪れた
夜の巷を彷徨ったわけではない
暗くなった街を歩いただけ
アーケード街の天井飾り
アーケード街横道
三条通り
三条通りのお菓子屋さん
三条通りの飲み屋さん
ホテルのビルの列柱
無事ホテルに帰還して
もう1泊
猿沢の池
奈良へ行くと
必ず一度は猿沢の池を訪れることにしているので
東大寺からの帰りに寄ってみた
南円堂を横目に見て進む
西国三十三所観音霊場の第九番札所になっていて
いつも参拝の人が絶えない
興福寺五重塔
暮れ始めたばかりだが
塔のライトアップが始まっていた
猿沢池と五重塔
Wikipedia には
奈良公園にある周囲360メートルの池
興福寺五重塔が周囲の柳と一緒に水面に映る風景はとても美しく
「猿沢池月」 は南都八景のひとつとなっている
とある
池と五重塔を撮るとき
いつも前景に入れる柳がない!
みんな根元から切り取られてしまった!!
カメラを左に振ると
さっきの南円堂が見える
南円堂の下には
土産物屋が並んでいる
修学旅行の生徒たちは
もう宿に入ったのだろうか
土産物屋も閉店時刻が迫っているようだった